契約自由の原則とその制限
 紀元前9世紀ごろ、フェニキア人によってカルタゴという都市が建設され、現在の北アフリカのチュニジアを中心に繁栄し、イベリア半島・シチリア島など西地中海の貿易を支配した。カルタゴはのちに台頭してきたローマとのポエニ戦争に敗れてBC146に滅亡した。古代ギリシアの歴史家ヘロトドスによると、カルタゴ人とアフリカ北西海岸の原住民との間には不思議な習慣があったという。カルタゴ人が品物を岸に置いて船へ帰ったあと、船の上からのろしをあげると原住民が現われ、そこに金を置いてその場を離れるのである。しばらくしてふたたびカルタゴ人が上陸し、その金の量で満足すれば、船に金を積み込んで立ち去り、取引は終わるのである。しかし、それだけの金の量で満足しなければ、金をそのままにしてふたたび船に帰ってしまうのだ。すると、また原住民たちがやってきて、カルタゴ人が満足するまで金の量を増やしていくのである。カルタゴ人と原住民たちは敵対的な関係であり、互いに顔をあわせることはなかったが、決して相手を欺くことはなかったようである。相手を欺くことは、終わることのない闘争=(イコール)死を意味していたのかもしれない。

 カルタゴの例を現代の日本の民法に当てはめてみるとどうなるであろうか。「カルタゴ人と原住民とは、浜辺で品物と金とを交換したので、財産権はそれぞれ移転しましたよ」、と586条によって承認されるのである。しかし、現代のさまざまな契約の中には、「AさんとBさんがリンゴとみかんを交換しました」とか「AさんはBさんに時計をあげました」などというAさんとBさんが対等な力関係であるものだけではなく、Aさんが一般消費者でBさんが大企業であるということもあるかもしれません(実際には買い物などほとんどこれに該当するのですが)。このような場合、経済的に優位な企業側が、一方的に契約条項(これが約款)を作成してしまい、消費者側はこれに関与できず、買うか買わないかという二者択一の状況に置かれてしまうのです。また、約款の作成に関与していないので、たとえば買ったラジオが5日目に壊れてしまったのでお店に持っていったら、契約書に小さな文字で「修理は3日以内は無料」と書かれていて、その横に自分のハンコがしっかり押されていたら泣きねいりするしかない。

 私が祖父と将棋をするときは、祖父から飛車と角を奪ってしまう。それくらいのハンデがなければ私は祖父に勝てないのである。ハンデがあっても私が負ける方が多い。これと同じように企業と消費者の契約も、契約自由の原則のままに当事者の自由に任せられているとどうなるのであろうか。結果は明らかである。民法は、平等な権利を有する当事者間の契約には対応できるが、現代の契約事情には対応しきれなくなっている。消費者側に何らかのハンデを与えて、消費者を保護しなければならなくなってきている。

 消費者を保護するためには、約款に修正を加えていかなければならない。したがって本来の契約自由の原則はすでに存在しないのである。約款と消費者保護という問題は、今後どのようになるのが望ましいのだろうか。

 現在世の中で起きている耐震強度偽装問題。信頼関係が崩れてしまった今の日本に契約自由の原則はもう成り立たない。まずは徹底的な原因究明から始めなくてはならない。