ここで帰ると電車にまともに乗れないのがわかっていたので、このまま残ることにした。当然12レースも馬券を買った が、1着しか当てられず惨敗。しかし空いてきて前の方に行けたので、ようやくレースの写真が撮れた。 グラムにはパドックでレース回顧のイベントがあるとはあったが、馬自身が登場とは書いていなかった。おそらく急遽 決定したのだろう。 パドックに行くともう前の方は埋まっていたが、後ろの植え込みの縁に腰掛けてカメラを構えて待った。やがてレース 回顧が始まりしばらくすると、関係者に引かれ池添騎手を背に乗せたアローキャリーがパドックに入ってきた。 1999年の菊花賞のレース後に杉本清さんと山田雅人さんが勝ち馬(ナリタトップロード)騎乗の渡辺薫彦(くにひこ) 騎手を交えてレース回顧をしていたが、このときはナリタトップロード自身は登場しなかった。話を戻すと池添騎手は 表彰式で畑野浩子さんと握手したらしいが、司会者にそのことを聞かれ「今日は手を洗いません!」と素顔は22歳の 若者らしい答えだった。 持ちながら「仁川駅は大変混雑しています。只今入場制限を行っております。」と呼びかけていた。確かに駅から 競馬場までは従来の道路と併せてルートが2通りになったが、仁川駅自体は拡張しておらず、もともとの狭い駅のまま だった。本来3基ある上りエスカレーターを1基に制限していた。これではなかなか進むはずがない。もっとも仁川駅は 競馬場最寄り駅としてはかなり手狭なので、いたしかたがない。 宝塚駅で阪急宝塚線(通称:ヅカ線)に乗り換えて梅田に戻ることにした。運賃はどちら回りでも260円だが、西宮北口 経由の方が時間は半分(約30分)で済む。しかし座れないのは確実であり、既に3時間以上立ち詰めだったので、 確実に座れる宝塚経由を選んだ。10分足らずで宝塚に到着、入れ違いで宝塚線特急が発車したのが見えた。もう少し 待っててくれないかなと思いつつ、停まっていた梅田行き急行に乗り換えた。ここまでくるとさすがに疲れがピークに 達したのか、30分ほど爆睡して気が付くと豊中を過ぎていた。 梅田に着くともう時計は18時を指している。東京に帰る前にどこかで”反省会”をと、JR高架下「新梅田食道街」の 松葉総本店へ向かった。ここは立ち飲みスタイルの正統派串かつ屋で、大阪へ行ったときは必ず立ち寄る場所の1つ である。カウンターにはそれぞれバットに入ったキャベツとソースがあり、生ビールを飲みながらキャベツをつまみ、 カウンターの上にある串かつを選んで5,6本ほど食べた。会計する段になってビール込みで1000円は超したかなと 思っていると、店の人が「ちょうど1000円です」と言ってきた。思ったより安かったのでビールを数え忘れたのかと思い、 ジョッキを見せ付けるようにカウンターの上に乗せたが、もう一度「1000円です」と言ってきたのでどうやら間違いない ようだ。なお、会計は皿に乗っている、値段ごとに長さが違う串の数で計算する。あとこういう串かつ屋で注意する点は 「ソースの2度付け」は御法度ということだろう。 軽く夕食にと寿司を買ってホームに上がった。自由席にしたのは前にも書いたようにモーターの音を聞きながら電車に 乗るのが好きなので、自分で号車を決められない指定席にしなかっただけである。自由席の内1,3号車はモーターが ないので(500系は全車両にモーターがある)、比較的空いてそうな2号車に乗車した。 新大阪を発車すると、先ほど買った寿司を早々に平らげ持って来た本を読んでいると、当然のことながら眠気が激しく なり、途中何度か目を覚ましながら、完全に起きたときにはもう小田原を通過するところだった。ここまで来ると関東圏 に戻ってきたことを実感する。新横浜を過ぎて多摩川を渡る頃になると、もう200km/hを出すことはない。品川駅付近を 過ぎると東京駅到着の自動放送が始まり、短いようで長かった旅の終わりを感じた。東京駅に着き山手線に乗り換え、 日常に戻る自分を痛感しながら正味28時間の”長旅”に幕を閉じた。 後日談:なぜ阪神競馬場の桜は満開だったのか?
2002年4月21日脱稿、まさかここまで長くなるとは思わなかった…。
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