「おらが故郷―京都府福知山市」

明智光秀殿

 貴公が天国へ行かれてすでに380年の月日が経ちました。私は今、貴公に対してお手

紙を書いております。無事お手許に届くか、所在地不明で返送されてきますか、私は意に

介しておりません。

 現在でも貴公の事を「三日天下の光秀」とか、「火事場泥棒の光秀」とか、悪く言ってい

る者が多くおります。もちろん私をはじめ幾人かは貴公の本心を知っています。が、私は

今さらそんなことを言おうとしているのではありません。貴公は丹波の「福智山」を覚え

ておられるでしょうか。貴公の「明智」にちなんで名付けられた町。私は当時こそが貴公

の当代第一の博学を十分に発揮された時期であり、又貴公にとって、あの我がままな織田

信長にわずらわされなかっただけでも楽しかった短い日々だったと思います。

 その「福智山」は、今では名も「福知山」と改まり、丹波・丹後・但馬地方随一の商都

となり、又交通の要路として鉄道管理局が置かれ、又牛市の中心地として、人口6万5千

の都市となりました。我々市民は、この基礎は貴公によって置かれたと、毎年夏の盆踊り

では「明智光秀 丹波を広め 広め丹波の 福知山」と貴公の功績・恩恵を感謝いたして

おります。又、御霊神社に祭祀し、毎年十月初旬三丹一の大祭を執行し、山陰の商都福知

山の守り神様と致しております。この盆踊りですが、その始まりは江戸時代、当時の城主

朽木家に町民が貴公を祭る御霊祭を願い出、その余興として踊りはじめられたもので、現

在は「福知名物かずかずあれど、盆の踊りが天下一」と徐々に全国的にもその優秀さが知

られはじめました。私も盆に家に居りますれば、毎晩そのタイコ・シャミの音に「ドッコ

イセ・ドッコイセ」と浮かれ出て行きます。

 盆踊りのクライマックスの一夜、名物福知山花火大会が催されます。しばしば、「福知山

は水害の名所」と言われます。貴公も城の内堀・外堀の水を満たしていたあの由良川を御

存知でしょう。私も中学生の時、家の二階までも水が氾濫してきたのを経験しております。

でも今では広大なる堤防の完成を目指して目下工事中です。「水害なき町」になるのも最近

いでしょう。この福知山を守る大堤防の恩恵に関し、先人の偉業を讃え、これの愛護心高

揚のために昭和6年に創設されたのがこの花火大会です。この行事もすでに三十回を越え、

山陰地方の名物にまでなっております。貴公は文武両道に優れ、築城術のみならず、砲術

家でもあった由、一日花火大会に現れて、大砲ならず、三尺玉の花火を大空に打ち上げら

れてはいかがですか。立身出世欲のみ強く、信長の腰巾着にすぎなかった秀吉に比して、

あくまで戦国の世に自己を守り通した貴公故、きっと興味深かろうと推察いたします。

 現在、福知山市は丹波の国ではなくして、京都府第三の都市であります。「みなと舞鶴、

商都は福知、仲をとりもつ紫水園」と、舞鶴、福知山、それに大本教と紫水園、繊維工業

で有名な綾部市とは、それぞれの長所を生かしながら仲の良い近所つきあいをしておりま

す。私の友人、河村俊介君はその舞鶴出身です。舞鶴というのは紫水園のある綾部市の北

に位置する裏日本一の港町であり、京都府第二の都市です。というよりも、あの戦国時代

の歌人武将細川幽斎が構築した所という方が良くわかられるでしょうか。その西に宮津市

があります。貴公もよくご存知の城より真北に見えるあの「大江山」を越えた所にある町

です。そこには日本三景の一たる「天橋立」があります。「大江山 いくのの道の遠ければ

まだふみもみず 天橋立」とか。貴公は大江山を越えてあの天橋立を見られましたか。

「天橋立股のぞき」をすれば、天国への橋が見える由、まさか貴公はそこを渡って天国へ

歩いて行かれたのではありますまいか。大江山の鬼退治の話はすでに貴公も聞いておられ

たでしょうが、今では若人の「スキー」でにぎわっております。スキーで思い出しました

が、福知山からは近畿随一の神鍋スキー場が近く、又温泉地「城崎」も近くにありますか

ら、天国でゆっくり休めなくなりましたら、是非お休みにおこし下さい。今では、天皇の

おられた、というよりはあの本能寺のある京都から準急で二時間以内、又堺のある大阪よ

りは二時間すこしで来られるほど便利になりました。

 現在の福知山は次の「四季の歌」にあらわれています。

「春はうれしや 二人揃うて 花見に出かけ 金毘羅堤や水源池

        南陵中学 朝暉山 一寸城山向こうに見て」

「夏はうれしや 二人揃うて 音無瀬橋の屋形船にて夕涼み

        福知山名物盆おどり 一寸広小路人の山」

「秋はうれしや 二人手をとり 松茸がりに 丹波名産栗と柿

        大文字山をながめつつ 一寸紅葉の長安寺」

「冬はうれしや 二人手をとり ねぐらを離れ 朝暉公園雪見酒

        葵の城下を見下して 一寸醍醐寺鬼ケ城」

 「二人揃うて手をとっていれば、どこに居ようと 楽しいよ」などと言わず、将来を目

指して発展しようとしている福知山を忘れずに訪ねて下さい。貴公はたぶん四季の歌の中

にあまりにはじめて聞く名にともどいを感じておられることと思いますが、「百聞は一見に

しかず」とか、貴公の再現を期待しております。

 以上の事は戦時中をしばらく福知山でお暮らしになさった稲葉教授、中学時代まで当地

に居られました第二過程六回生朝比奈幸雄先輩により確証される事と信じます。

 願わくばこのささやかな手紙が貴公のお手許に届きますことを祈りつつ筆をおきます。

     昭和37年春

                         11回生 塩見幸市より

 天国に居られる

    明智 光秀殿

             侍史

<コメント>

この文書は神戸大学稲葉ゼミで今でも年一回発行されている「雑誌:襄山第8号」(昭和

38年2月発行)に掲載された原稿である。それから、丁度40年が経過し、あらためて

時代の変化を感じている。福知山市を紹介するのに、有名な明智光秀宛の手紙の様式にし

たのは今読み返しても面白い着想であった。然し明智光秀は天正8年(1580年)織田

信長により丹波の領主に任じられ、近江坂本城を居城としながらも丹波支配の根拠を亀山

城に置き、福知山を重要拠点として整備し重臣を配置したがそれもわずかに2年にすぎな

かった。それでも、明智光秀の残した無念の思いは福知山の人の心に強いかげを落とし、

「御霊神社」に合祀したと言われている。

私は、昭和34年に福知山を離れ、既に40年以上も経ち今では年に一回程度しか帰省し

ないが常に故郷を思っている。その間、大きく変化した点もあるが総じていえば余り変化

していない。「鉄道管理局」が置かれていた「国鉄」は民営化され、福知山・宮津・舞鶴・

豊岡を結ぶ鉄道は第三セクターが経営する「北近畿タンゴ鉄道」となり、高速道路は中国

自動車道から舞鶴自動車道がつながり便利になってきている。堤防が整備され水害の心配

はなくなった。然し、私の生まれ育った「花の新町」は人通りも少なくなり、店じまいの

店も増えてきていて寂しくなっている。

 「福知山踊り」は昭和25年「歌と踊りお国自慢大会」で第一位を獲得、昭和29年に

は「都道府県対抗民謡舞踊大会」でも全国第二位に選ばれている。私が中学・高校・大学

時代の昭和30年代頃は本当に賑やかで花火大会や夜店と共に町中が大賑わいしたもので

ある。今、商工会議所が中心となり「ドッコイセ回廊活性化事業」が実施されていると聞

いている。私の福知山高校時代の同級生「谷村商工会議所会頭」をはじめ、同級生の仲間

が「福知山音頭と福知山踊り」をもう一度復興して地域の復興、とりわけ中心市街地の活

性化に積極的に取り組んでおられるのは本当に嬉しい事である。「故郷は遠くにありて思う

もの」ではなく、もっとしばしば帰郷したいものだと考えている。尚、高校時代の同級会

「金木犀の会」が「ホームページ」を作成してくれていて、いつでも近況を知ることが出

来るのも有難い事である。

(参考文献)「ふくちやま ドッコイセの町 歴史散歩」

(平成12年3月:福知山商工会議所 発行)


「福知山城天守閣」(再建)

 
「福知山高校正門」                         「福知山高校校章」(卒業40周年を記念して寄贈)