「東海道53次を歩き・見て・食べる旅」<第33版>

<スタート>日本橋 <1>品川宿 <2>川崎宿 <3>神奈川宿 <4>保土ヶ谷宿
<5>戸塚宿 <6>藤沢宿 <7>平塚宿 <8>大磯宿 <9>小田原宿
<10>箱根宿 <11>三島宿 <12>沼津宿 <13>原宿 <14>吉原宿
<15>蒲原宿 <16>由比宿 <17>興津宿 <18>江尻宿 <19>府中宿
<20>丸子宿 <21>岡部宿 <22>藤枝宿 <23>島田宿 <24>金谷宿
<25>日坂宿 <26>掛川宿 <27>袋井宿 <28>見付宿 <29>浜松宿
<30>舞阪宿 <31>新居宿 <32>白須賀宿 <33>二川宿 <34>吉田宿
<35>御油宿 <36>赤坂宿 <37>藤川宿 <38>岡崎宿 <39>知立宿
<特別>岡崎市内 <40>鳴海宿 <41>宮宿 <42>桑名宿 <43>四日市宿
<44>石薬師宿 <45>庄野宿 <46>亀山宿 <47>関宿 <48>坂下宿
<49>土山宿 <特別>伊賀上野市 <50>水口宿 <51>石部宿
<52>草津宿 <53>大津宿 <ゴール>京都三条大橋


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小田原宿〜吉原宿

吉原宿〜藤枝宿

藤枝宿〜掛川宿

掛川宿〜二川宿


(22)二川宿〜吉田宿(6.1Km)〜御油宿(10.2Km)<3月12日>
前回の最終地「二川駅」に9時20分に集ることになり、私は朝6時に家を出て、新横浜駅から
新幹線(ひかり号)で豊橋駅に9時に着き在来線で一駅戻って二川駅に予定通り着きました。
今回の参加者9名の内3名は昨日から豊橋駅前のホテルに前泊されていました。「
二川駅
前で集合写真を撮り元気にスタートしました。前2回を欠席された立派な資料を作成していた
だいているYさんも元気に参加されました。歩き始めて直ぐに東海道を外れて岩屋山頂に建つ
岩屋観音」にお参りする。山頂からの眺めも素晴らしい。元の道に戻り「旧東海道のクロマツ
の切り株
」「飯村の一里塚」「白山神社」「壽泉禅寺」「常夜灯」を眺めながら歩いていると
東惣門跡」に着き、ここから「吉田宿」に入る。「曲尺手門の石碑」「吉田宿の石碑」「大手門
」を見学していると丁度昼食時間となり「豊橋公会堂」の前にある「五月寿し」で食事とする。
9名が入ると一杯で2名は寿司米が間に合わず「十穀米ご飯」となった。
13時に出発し、まず「
豊橋公園」「吉田城址」「吉田城隅櫓」「吉田神社」等を見学する。
吉田宿本陣跡」「西惣門跡」を過ぎ「豊橋」を渡ると吉田宿とも別れる。「聖眼寺」「松葉塚
下地一里塚」を過ぎると古墳時代前期の「瓜郷遺跡」があり「復元家屋」を見学できる。
子だが橋の碑」「菟足神社」を過ぎ「JR飯田線小坂井駅」を過ぎ、「伊奈村立場茶屋」「伊奈
一里塚
」「速須佐之男神社」を見学していると本日の最終地「名鉄名古屋本線小田淵駅」に
16時に到着した。ここから30分に一本の電車で「伊奈駅」に移動、更に15分待ちで「豊橋駅」
に到着した。駅前の「
第一ホテル」(朝食付:6000円)には17時チェックインした。汗を流し、
18時にホテル前の結婚式場の中にある「
和創料理:是々庵」で宴会をした。ここには、昔一緒
に仕事をした仲間で名古屋で勤務中のEさん、Tさんも参加していただき、11名で楽しく食べ・
飲んだ。(本日の歩数:32千歩)
 
<二川駅前=私を除く>       <宴会場にて>
         
岩屋観音> <旧東海道のクロマツの切り株><飯村の一里塚>
   
白山神社>   <壽泉禅寺> <常夜灯>   <東惣門跡>
   
曲尺手門の石碑><吉田宿の石碑><大手門跡><豊橋公会堂>
   
五月寿し>  <豊橋公園>   <吉田城隅櫓>  <吉田神社>
   
吉田宿本陣跡> <西惣門跡>  <聖眼寺>    <松葉塚>
   
下地一里塚> <瓜郷遺跡>  <子だが橋の碑> <菟足神社>
        
伊奈村立場茶屋> <伊奈一里塚>   <速須佐之男神社
  
第一ホテル> <和創料理:是々庵><料理の一部>

<写真の説明>

岩屋観音<天平2年(730)行基が諸国巡行の際に千手観音像を刻んで岩穴に安置して
開いたといわれます。江戸時代には、街道をゆきかう人々から多くの信仰を集め、ことに備前
岡山藩主池田綱政はこの観音を崇敬し、元禄から宝永(1688〜1710)にかけて、観音経・
黄金燈龍・絵馬などを寄進しました。山上に立つ聖観音像は、吉田大橋の架替工事を担当した
江戸下谷の大工茂平と善右衛門の二人が工事の難しさに困り果てて観音堂に参籠し、霊夢に
よって難工事を完成させることができた恩返しとして、明和2年(1765)下谷講中が建てたもの
で、現在のものは昭和25年(1950)に、再建されたものです>
旧東海道のクロマツの切り株<「とよはしの巨木・名木100選」で樹齢150年高11.5m幹周
2.34mあったが松喰虫のため平成19年2月に伐採された。往年の姿の写真入りと説明板もある。
旧東海道のクロマツの幹を輪切りにし、防虫処理等を施し置物が作製され、二川宿本陣資料館
玄関で平成19年4月28日(土)より展示されている>
飯村の一里塚」<江戸時代は両側に榎が植えられていた。飯村は安政5年(1858)の記録では
家数68人口294。かつては農耕地も多く小石の混ざった土壌が薩摩芋に適し特産地となって
いたが現在はわずかに栽培される薩摩芋は「飯村甘藷」と呼ばれブランド化している>
壽泉禅寺」<臨済宗妙心寺派、石積みのアーチ上に入母屋の建屋が乗った平成8年築の
山門と平成15年築の三重の塔が目立つ。創建年代は不明だが渥美郡大津村の桂昌寺
(現:老津町大津中57)の松山和尚が同村の長松山太平寺(現:老津町東高縄204)の末寺として
開山した。延宝8年(1680)現在地に移転し元禄6年(1693)寿千寺となり正徳5年(1715)瓦町の
火災で類焼したのを機に寿泉寺と改めた。本尊は薬師三尊。昭和20年空襲により現在の
本堂と庫裏は平成2年築。>
常夜灯」<この常夜灯は文化2年(1805)吉田宿東惣門前に建てられたものである。
以来「新町の大燈籠」として吉田の名物の一つとなり昭和55年豊橋公園内に復元された>
東惣門跡」<吉田宿には、東西二箇所に惣門がありました。江戸時代初期から惣門が設置
されていたと考えられます。惣門は朝六つ(午前六時)から夜四つ(午後10時)まで開けられ
ておりました。>
曲尺手門の石碑」<曲尺手門は吉田城内への入口の一つであった。旧吉田城の巽の方位
にあり城門の跡にして曲尺手町発展の礎である>
豊橋公会堂」<建築家中村與資平の設計で昭和6年(1931)建てられ空襲も逃れた鉄筋コンクリート造3階建のロマネスク様式の貴重な近代建築で平成10年国登録文化財。延床面積2945.27平方m。ドーム頂上までの高さは16m。屋根には4羽の鷲の像が乗っており建設当時の鷲像2羽は建物の右に置かれている
豊橋公園」<豊橋公園のあった場所はもともと江戸時代に吉田城のあった場所でしたが、
明治の時代になると旧日本陸軍歩兵第18連隊が設置されていた場所でした>
吉田城隅櫓
<吉田城は最初今橋城とよばれ今川方の牧野古白によって築城された。
天文十五年(1546)になって今川義元が城代を置いた。義元が桶狭間で戦死すると、
徳川家康が吉田城を取り、酒井忠次を入れた。天正十八年(1590)家康が関東に入ると
池田輝正が十五万二千石で入封し、豊川を背にして本丸を中心に二の丸・三の丸を配置し、
半円郭式縄張りに拡張した。しかし、慶長五年(1600)に姫路に移封となったため、
工事は未完に終り、代わって入った竹谷松平氏は三万石の石高であったため、大城郭の
計画は実現しなかった。吉田城には天守閣はなく、本丸御殿が宝永の大地震で倒壊する
までここにあった。四隅の石垣には櫓があったが現在では北西石垣上に昭和二十九年の
豊橋産業文化大博覧会を記念して再建された入道櫓と石塁・堀・本丸城郭が残っている

吉田神社」<吉田神社は元々は吉田城内にあった吉田天王社であり、明治2年(1869)に
吉田神社と改められました。7月に行われる祇園まつりは、ここが発祥の地と伝承されていま
す。三河地方独特の手筒花火や打ち上げ花火の他に、今川義元が寄進したといわれる御輿
渡御、笹踊、頼朝・乳母・饅頭配りなどの行列などが行われ、豊橋市の三大祭りのひとつとして
親しまれています>
吉田宿本陣跡」<吉田宿の本陣は、宿の中央部にあたり、東海道筋で最もにぎわった札木町
のこの地に、建坪327坪(約1,080平方メートル)の清須屋与右衛門と建坪196.5坪
(約648平方メートル)の江戸屋新右衛門の二軒が並んであった>
聖眼寺」<平安時代から朝廷・幕府の厚遇を受け、江戸時代には薬草栽培と試薬をし、
戦後は診療所を経営するなど福祉事業に貢献した寺です。境内の芭蕉の句碑「ごを焼いて
手拭あぶる寒さ哉」は、芭蕉が1686年冬に愛弟子杜国の身を心配して渥美郡保美の里を
訪れる途中、立ち寄った時のものといわれています>
松葉塚」<明和6年(1769)の再建松葉塚、および古碑松葉塚の所在を示す宝暦四年
(1754)建立の標石があり、当地方文学史研究上資料的価値の高いものである。貞享四年
(1678)冬、松尾芭蕉は愛弟子杜国の身を案じて渥美郡保美の里(現渥美町)を訪れる途中
当寺に立ち寄り、一句を詠んだ。尖頭型自然石の古碑松葉塚は、芭蕉没後50年忌を記念して
建てられたといわれ、句は「松葉を焚て手ぬくひあふる寒さ哉」と刻まれて「松葉塚」名称の
由来を示している。>
下地一里塚」<江戸時代には塚には左右ともに榎が植えられていた。江戸日本橋より74里>
瓜郷遺跡」<瓜郷遺跡は唐古遺跡(奈良県)・登呂遺跡(静岡県)などとともに弥生時代の
低地にある遺跡の一つとして貴重なものです。なお出土品は、豊橋市美術博物館に収蔵され
ています。>
子だが橋の碑」<およそ一千年前菟足神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの
街道を最初に通る若い女性を生贄にする慣習があったと伝えられている。ある年のこと、
贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘め
て、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかに
すべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に
奉った。それからこの橋を、子だが橋と呼ぶようになったということである>
菟足神社」<今から二千二百年ほど前、戦国の中国を統一した秦の始皇帝は、徐福から
東方海上に蓬莱など三つの神山があり、そこには不老不死の霊薬があるということを聞いた。
そこで、始皇帝はその霊薬を求めて来るように徐福に命じ、蓬莱の島に向かわせた。しかし、
出発してからのその後の徐福一行の動向はわかっていない。ところが、わが国には徐福一行
の渡来地といわれている所が二十余箇所もある。この神社も徐福渡来地の一箇所として
挙げられているのである>
伊奈村立場茶屋」<加藤家跡(俗称 茶屋本陣跡) 一 東海道吉田宿と御油宿の中間に
あたり、立場茶屋が設けられたので、茶屋の地名ができた。>
伊奈一里塚」<江戸時代には左右の塚とも榎が植えられていた。伊奈村は永享年間
(1429-41)本多定忠が平定して以降、家康の関東移封まで伊奈本多氏の支配下にあった。
居城の伊奈城は徳川家の葵の紋の発祥地として知られる>
速須佐之男神社」<古くは土公神と称しこの地が開かれた当初からあり明和年間(1764-71)
に尾張の津島神社を勧請し牛頭天王社と改めた。明治初期に速須佐之男社となり昭和4年
(1929)村社に昇格とともに速須佐之男神社となった>

(23)御油宿〜赤坂宿(1.7Km)〜藤川宿(8.8Km)<3月13日>
朝食を済ませ8時にホテルを出発。豊橋駅から名鉄電車で「小田渕駅」に移動したが、
電車の接続が悪く結局8時50分に集合写真を撮影し歩き始める。「名鉄名古屋本線」
「国道1号」に並行した「旧東海道」を歩く。「
秋葉山常夜灯」「薬師堂」「国府観音」「高膳
」「大社神社」「御油一里塚」「追分・秋葉山三尺坊大権現道」を見学して「旧御油橋」を
渡ると「
御油宿」に入る。いつのまにか9名がばらばらになり、私はYさん、Kさんの3人で
歩いた。「
ベルツ博士花夫人のゆかり地跡」「高札場跡」「問屋場跡」を見学した。ここには
松並木資料館」があり、じっくりと見学した。「東林寺」を見学し更に歩くと600m続く
御油の松並木」を歩く。すると宿場間が1.7Kmと一番短い「赤坂宿」に入る。「見附跡
関川神社」「問屋場跡」「本陣跡」を見学する。ここには、江戸時代から続いていて今でも
営業している「
旅籠や:大橋屋」があり、見学させていただいた。「御休処:よらまいかん
杉森八幡宮」「長沢一里塚」「長沢城址跡」「観音堂跡と磯丸みほとけ歌碑」を見学して
歩いていると、宿場間にある「
本宿」に入る。既に12時半を過ぎ、前を歩いている仲間は
既に食事処に入ったとの連絡が入る。電話で「カツ丼」の注文をする。家康が竹千代時代
に学んだ「
法蔵寺」により「近藤勇の首塚」を見学後、やっと午後1時に「食事処:はむらや
に到着。遅い昼食となる。前を歩く6名はすぐに出発する。午後1時30分出発。途中から
Oさんが加わり4名で歩く。「
本宿一里塚」「宇都野龍碩邸跡」「山中八幡宮」を見学して
いると鎌倉時代からの古い宿場「
藤川宿」に入る。「藤川宿資料館」「西の棒鼻跡
歌川豊広歌碑」を見学し、前の5名は「藤川駅」から帰宅するとの連絡があったが、
私共4名は次回の電車の便を考えて次の「美合駅」まで歩く事にする。「
十王堂
藤川一里塚」「吉良道道標」「藤川の松並木」を見学して「美合駅」に午後3時30分に
到着した。ここから「豊橋駅」に移動し、午後4時30分発の「こだま号」に乗車した。
4名でビール等を飲みながらゆっくりと帰宅した。私は「新横浜駅」経由午後8時15分、
帰宅した。<今日の歩数:35千歩>

<小田淵駅前にて=私を除く>
   
秋葉山常夜灯><薬師堂>   <国府観音>  <高膳寺>
      
大社神社>  <御油一里塚><追分・秋葉山三尺坊大権現道>
          
御油宿><ベルツ博士花夫人のゆかり地跡><高札場跡>
   
問屋場跡> <松並木資料館><資料館内部> <東林寺
   
御油の松並木><見附跡>  <関川神社>   <問屋場跡
      
本陣跡> <旅籠や:大橋屋><御休処:よらまいかん><杉森八幡宮>
     
長沢一里塚> <長沢城址跡><観音堂跡と磯丸みほとけ歌碑
   
本宿案内板> <法蔵寺>  <近藤勇の首塚><食事処:はむらや
   
本宿一里塚><宇都野龍碩邸跡><山中八幡宮><藤川宿案内板>
   
藤川宿資料館><西の棒鼻跡><歌川豊広歌碑><十王堂>
   
藤川一里塚><吉良道道標><藤川の松並木><美合駅>

<写真の説明>

秋葉山常夜灯」<形式は神前形、高さ二〇五センチメートル、造立は寛政一二庚申年
(1800)>
薬師堂」<切通しを薬師山と古今云い傳うなり。峯に登り西の方をながむれば、漫々
たる青海原、伊勢あまてらします御神の御鎮座まで拝せられ、その殊勝なる事言語に
述べがたく、峯のあらしと法の声本覚真如の月輪は生死長病の闇をてらし給う事これま
ことに菩薩の衆生化益なりという。瑠璃殿の扁額は文政4年(1828)八幡山巌禅翁の書>
国府観音」<本尊は、大須、浅草と同じく1寸8分(約5cm)の聖観世音菩薩で秘仏といわ
れている。この観音像は江戸時代の慶長15年(1610年)、極楽寺の住僧が俗に玉入りと
いわれていた地中から発掘したもので、その住僧が本寺の開基となっている>
高膳寺」<高膳寺には、天保の頃から明治時代まで寺小屋が置かれていた。ここで読み
書きを習った子弟は120名ほどで、この地域でこれほどの子弟を抱えた寺小屋は数少ない>
大社神社」<社伝によると、天元・永観(978〜985)の頃、時の国司 大江定基卿が三河守
としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国大社より大国主命を勧請し、
合わせて三河国中の諸社の神々をも祀られたとある。当社には、徳川14代将軍 家茂が
長州征伐に際して、慶応元年、戦勝祈願をされ、短刀の奉納をされております。」とある。>
御油一里塚」<場所は大社神社の北で、左塚は御油宿地内、右塚は国府村地内で両塚
とも榎が植えられていた>
追分・秋葉山三尺坊大権現道」<船を嫌ったり、厳しい新居関の検査を避けた女性が
浜松宿から浜名湖北岸を迂回する本坂越えと呼ばれた道はここで東海道と合流する。
またこの道は途中豊川から分れ五智教団の総本山・鳳来寺秋葉山への参詣道でもある>
ベルツ博士花夫人のゆかり地跡」<ベルツ花夫人は、江戸・明治・大正・昭和の時代を
生きた、御油とはゆかりの深い女性です。1864年(元治元年)東京の神田で御油出身の
荒井熊吉とそでとの間に生まれ、明治新政府の近代化政策によってドイツから招いた
ベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしました。ベルツ博士は、1876年(明治9)に
来日し、東京医学校で医学を教えるとともに、明治天皇の主治医も勤めた医学者で、
日本近代医学の祖といわれています。花夫人は、1905年(明治38)任期を終えた
ベルツ博士とドイツに渡りましたが、博士が亡くなったため1922年(大正11)日本に
帰国し、1937年(昭和12)74歳で亡くなりました。父親の熊吉の生家が御油宿で、
戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所です>
高札場跡」<高札とは、江戸時代に代官所が町民や旅人に諸規則を知らせるために
設置した掲示板です。御油宿では、ここの場所に高札が立てられていた>
松並木資料館」<御油宿、赤坂宿の歴史や御油の松並木について紹介、解説する
資料館。地元に残る貴重な資料など100点余が展示されている。また、街道時代の
御油・赤坂を実際の1000分の1のジオラマ模型で展示している>
東林寺」<室町時代の中頃の永享年間(1429〜1441)に龍月日蔵和尚によって
創建され、当所「洞元庵」と呼ばれていました。本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代初期の
中央仏師の作と推定されています。この寺には、徳川家康が二度も立寄っています。
また、芝増上寺の管長祐天大僧正がたびたび訪れていることからも、当時の隆盛ぶりを
うかがい知ることができます>
御油の松並木」<この御油の松並木道は江戸時代後期の十返舎一九の著作「東海道中
膝栗毛」の主人公、弥次郎兵衛、喜多八も歩いた街道です。お伊勢参りに行く途中、この
辺りで弥次郎兵衛は失態を演じました。陽も落ちかけた頃、弥次郎兵衛は御油宿の茶店の
婆さんが、悪い狐が出て旅人を化かすので 「此の宿に泊まらっしゃりませ」と言うのも聞か
ず、先に行った喜多八を追いかける。松の鬱蒼と繁ったこの辺りで本物の喜多八に追い
つく。茶店の婆さんが言った狐の話をすっかり信じて、喜多八を狐と思い、突き倒し縛り
上げてしまう。そして追ったてながら赤坂の宿に向かう。‥‥‥こんな滑稽譚が生れた
ところです。昭和19年に国の天然記念物に指定され、『日本の名松百選』にも選ばれて
います>
見附跡」<見附とは、宿場の入口に石垣などを積み、出入りする者を見張ったところで
ある。赤坂宿見附は、東西に設けられていた>
関川神社」<長保三年(1001)に赤坂の長者、宮道弥太次郎長富が関川のクスノキの
元に市杵島姫命を祀ったお宮を建立した。以来弁財天として近隣住民に崇敬された>
問屋場跡」<問屋場は、伝馬役によって決められた人足や馬を常備し、宿場間の公用の
荷物や旅人を次の宿場まで輸送する事務を行うところです。問屋・年寄・帳付・馬指という
宿役人により運営されていました。宿場のほぼ中央に置かれ、本陣・脇本陣と共に宿場の
大事な役目を果たしていたので、宿内の有力者が世襲でつとめることが多くありました>
本陣跡」<本陣は、参勤交代の大名・幕府の役人・公家などが休泊するところで、玄関・
書院・上段の間を備えていました。赤坂宿の本陣は、初め彦十郎家一軒で行われていま
したが、宝永8年(1711)の町並み図では、庄左衛門家・弥兵衛家・又左衛門家が加わり
4本陣となっています>
旅籠や:大橋屋」<本陣・脇本陣以外の武士や庶民などの宿泊施設を旅籠屋という。
享保十八年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせて家数四百件のうち、八十三軒が旅籠屋
であった。大橋屋は、旧屋号を鯉屋といい、正徳六年(1716)の建築といわれる。赤坂宿
の旅籠屋の中では、大旅籠に属し、間口九軒、奥行二十三間ほどであった。入り口の
見世間・階段・二階の部屋は往時の様子を留める>
御休処:よらまいかん」<連子窓のある古い町屋を模した休憩所が出来ていた>
杉森八幡宮」<その起源は古く西暦702年とされる。毎年10月に行われる大名行列は、
明治時代の初めごろ祭礼の余興として始まったもの>
長沢城址跡」<1458年、標高92mの丘陵端に松平宗家3代信光の子親則が岡崎岩津
より長沢城を築いて移り住み、長沢松平家の祖となる。1616年除封となり、嫡流は断絶
する>
観音堂跡と磯丸みほとけ歌碑」<弘化3年(1846)観音堂の妙香尼が旅人の落馬を機に
歌人の磯丸に念仏供養のため歌を依頼した。「おふげ人 衆生さいどに たちたまう 
このみほとけの かかるみかげを」 八十二翁 磯丸>
本宿案内板」<東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たした
といえる。享和二年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内
往還道十九丁、立場茶屋二か所(法蔵寺前、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場
として繁盛をきわめた>
法蔵寺」<行基菩薩34歳の時諸国行脚の途中、当山峯に霊木有るを知り是によって
観音像を刻み持統天皇の勅命に依り安産祈願を修行し、後、大宝元年(701)文武天皇
が一宇を建立し出生寺とした。中間弘法大師来て諸堂を改修し、六角堂を建立真言道場
とした。後に松平親氏は三河を平定し、当山に来て宗を浄土に改め名を法蔵寺となし阿弥
陀仏を本尊となし、代々松平家の寺と定めた。家康幼少の時この寺において養育され
学問手習いを修得した>
近藤勇の首塚<近藤勇は、明治元年(1868)四月、板橋刑場で斬刑に処された。
近藤の首は塩漬けにされて京都送られ、三条大橋に晒された。三日後、同志により首は
持ち出され、近藤勇が生前敬慕していた新京極寺町の誓願寺孫空義天大和尚に埋葬を
依頼した。和尚はその半年前にここ法蔵寺の第三十九代貫主に就いていたので、近藤の
首もこの地に運ばれることになった。寺は山中にあり、大木が生い茂っており“賊徒”近藤
勇の首を隠すには好都合であった。その後、世間を憚って石碑の上から土をかけて隠す
うちに、石碑の存在そのものまで忘れられるようになった。この首塚の存在が明るみに出
たのは昭和三十三年。石碑を覆っていた土を取り除き、その横に近藤の胸像が建てられ
ることになった>
本宿一里塚」<ここは江戸から78里目の一里塚になります>
宇都野龍碩邸跡」<本宿村医家宇都野氏は古部村(現岡崎市古部町)の出といわれ
宝暦年間(1751−63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。
七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。
安政年間、当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している>
山中八幡宮」<文武天皇の御代にこの地に山中光重という者がおり、八幡大神を厚く
尊信し悪夢を感じ神霊を迎えて奉祀したのが創立由来とされている。応永年間(1394〜
1428)に松平初代親氏が山中八幡宮に参拝、開運を祈願した。天文年間(1532〜1555)
に焼失したが家康公の父である、8代広忠が再建した。永禄元年(1558)家康公初陣の際
戦勝を祈願した。又、永禄 6年(1563)の三河一向一揆の時には、山中八幡宮の洞窟に
身を潜めて危機を脱している。この2つの出来事により家康公は益々山中八幡宮への
尊崇を厚くし、山を「御身隠山」と称して、洞窟を「鳩ヶ窟」と呼ぶようになったという>
藤川宿資料館」<「本陣家」は宿場町の大旅籠屋で、建物は、門・玄関・上段の間を
設けることができ、当主は名主・宿役人などを兼帯し、苗字帯刀を許されていた。現在、
土地や建物を森川家から借り受け、「藤川宿第二資料館」として利用している>
西の棒鼻跡」<宿場のはずれを「棒鼻」と称し、したがって宿場町では、東、西の両方の
はずれを言う。藤川に再現された「棒鼻」は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿
の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。傍示杭(境界を示す杭)
と宿囲石垣がその景観を際立たせている>
歌川豊広歌碑」<「藤川の宿の棒鼻みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」【解説=
宿場の棒鼻で見渡すと、杉の木でつくった表示杭が立っていた。また付近の店では西浦・
吉良あたりから仕入れてきたらしいうで蛸の足がぶらさがっている。と山中の宿で海の物
を売っている取り合わせを詠った。豊広は豊国と並ぶ歌川派の双璧。広重の師匠>
十王堂」<「十王堂」は十人の王を祀る堂で、その「十王」とは、冥土のいて亡者の罪を
裁く10人の判官をいう。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・
平等王・都市王・五道転輪王の総称である。藤川宿の「十王堂」はいつ頃創建されたかは
不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の記年があるので、
ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する>
藤川一里塚」<当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間
(1830〜)頃には南側はすでになくなり、北川の榎は昭和初期には枯れてなくなってしま
った>
吉良道道標」<藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、
西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と
呼んでいて、この分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。江戸時代、参勤交代の行列、
助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入ロなど重要な脇街道であった>
藤川の松並木」<藤川町の西端約1キロメートルの間の九十本あまりからなり、クロマツ
が植えられている>

(24)藤川宿〜岡崎宿(6.6Km)の先<4月9日>
発起人のNさんが4月1日付で新しいお仕事に就任された為残念ながら今回から参加
されなくなりました。前回の最終地「見合駅」に9時45分に集ることになり、私は朝6時
前に家内に「
八王子みなみの駅」に送ってもらい、新横浜駅から新幹線(こだま号)で
豊橋駅に9時11分に着き急行で「
名鉄見合駅」に予定通り着きました。今回の参加者は
10名で駅前で集合写真を撮り元気にスタートしました。まず「
本宗寺」を訪問し、「岡崎
源氏蛍の発祥地
」「西大平藩陣屋跡」「大平一里塚」「八柱神社」「築山御前首塚
大泉寺」「於大の墓碑」「冠木門」「岡崎二十七曲の碑」「若宮八幡宮」「岡崎信康首塚
根石原観音堂」を見ながら歩いていると12時30分となり、少し豪華な「しゃぶ庵」で
そば定食を食べる。
13時に出発した時には、先行する8名と分かれていつも素晴らしい資料を作成している
Yさんについて二人で「
岡崎七曲がり」を出来るだけ忠実に歩いていく。途中「祐伝寺
築山殿の墓」「常夜灯」「西本願寺三河別院」「浄瑠璃姫の墓所」「小野屋敷跡
西本陣跡」「旧商工会議所」「岡崎藩校跡」「大林寺」「松平氏の墓」「新田白山神社」等
を見学し、「
岡崎公園」に入る時、先行の8名とすれ違った。そのまま別行動を続け、既に
散りかけている「
さくら祭り」(4月15日まで)を楽しみながら「岡崎城」「浄瑠璃姫の供養塔
産湯の井戸」等を見学した後、更に岡崎市内を歩く。「松葉町総門跡碑」「八丁味噌の
カクキュー
」を見学し、今尚拡幅工事が続いている「矢作橋」を渡る。「勝蓮寺」「誓願寺
浄瑠璃姫の墓」を見学した所で、先行の8名は本日の最終地点「名鉄宇頭駅」の更に
一駅先の「
新安城駅」まで歩くと聞いたが二人は予定通り「宇頭駅」から電車で
「東岡崎駅」に戻り今日の宿泊「
第一ホテル」に16時20分にチェックインした。
汗を流して18時50分ロビーに集合し、岡崎市内の「
くいしん坊」で宴会となる。美味しい
お酒と料理で盛り上がった後は、ホテルの部屋で二次会があったそうだが私はくたびれて
直ぐに眠ってしまった。(本日の歩数:3万歩)<続く>
 
<見合駅前にて=私を除く>   <宴会場にて>
      
本宗寺> 岡崎源氏蛍の発祥地><西大平藩陣屋跡
   
大平一里塚><八柱神社> <築山御前首塚> <大泉寺>
   
於大の墓碑><冠木門><岡崎二十七曲の碑><若宮八幡宮>
   
岡崎信康首塚><根石原観音堂><しゃぶ庵><食事風景>
   
祐伝寺> <築山殿の墓>  <常夜灯> <西本願寺三河別院>
   
浄瑠璃姫の墓所><小野屋敷跡><西本陣跡><旧商工会議所>
   
岡崎藩校跡> <大林寺>  <松平氏の墓> <新田白山神社
   
岡崎公園> <岡崎城> <浄瑠璃姫の供養塔><産湯の井戸>
        
松葉町総門跡碑><八丁味噌のカクキュー><矢作橋>
   
勝蓮寺>   <誓願寺>   <浄瑠璃姫の墓> <くいしん坊>

写真の説明
本宗寺」<元は蓮如上人が応仁 2年(1468)、額田郡土呂(現・岡崎市福岡町)に創建した
浄土真宗本願寺派の寺院で、その後、本宗寺は三河本願寺派の主要な寺院となっている。
しかし永禄 6年(1563)から翌年にかけての三河一向一揆の拠点となった本宗寺は、家康公に
抵抗したことから、兵火に焼かれ、広大な伽藍は破却されることとなり、本願寺派は三河から
追放されてしまうことになった。家康公の生母・於大の方(伝通院)の姉妹で、石川清兼の妻で
あった妙西尼(妙春尼)は、本願寺派の再興を再三にわたって家康公に願い出ていたが、
天正 11年(1583)、家康公から赦免状が発せられ、本宗寺は最初に復興を認められた。その後、
慶長 6年(1611)に現在地である美合の地に移転し、今日に至っている。本宗寺には、妙西尼の
孫で、家康公が駿府で人質として生活していた幼い頃からの家臣で、のちに岡崎城代までつとめ
ながらも、小牧・長久手合戦後に出奔、豊臣秀吉の下へと走った石川数正の墓もある>
岡崎源氏蛍の発祥地」<岡崎源氏螢発生地農薬、工場廃液、周辺の都市化等により、螢の発生は著しく衰退している
が、以前は竜泉寺川(生田川)流域に多く発生していたので生田螢ともいう。現在、6月上旬の羽化最盛期には、
夕刻8時頃、螢が飛び交って真に美しい>
西大平藩陣屋跡」<江戸時代中期になってからの陣屋跡。その主は名裁判官として有名なあの大岡越前守忠相に
始まり、廃藩置県まで7代に渡って大岡家が継承。伊勢山田奉行での働きが評価され、江戸町奉行に抜擢された旗本の
大岡忠相は江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の推進する享保の改革を強力に補佐し、後に寺社奉行まで昇進した。
その功績を称えられ、1748年(寛延元年)閏10月1日それまでの領地であった相模国堤村など5920石の所領に加え
三河国渥美・宝飯(ほい)・額田(ぬかた)3郡の中で計4080石を与えられ晴れて1万石の大名、西大平藩主に昇進した。
忠相晩年、72歳の時の話だ。これに伴い、三河国の封領を統治するため築かれたのがここ西大平藩陣屋>
大平一里塚」<東海道岡崎と藤川両宿の間にあって、これは南側の塚である。塚の規模は、高さ2.4メートル、
底部の縦7.3メートル、横8.5メートルの菱形である。>
八柱神社」<当神社の創立年は不詳であるが 往古より紀伊国熊野の里に居住した 清和源氏の流れを汲む鈴木一族
が源平の戦に加わり戦利無く難を逃れて三河国碧海郡桜井村に渡り住む。以来鈴木一族の氏神として尊崇されて来たが
村の発展と住民の増加等の永い年月のすえ 欠町の鎮守の神様として崇められて来た。昭和9年欠町広見西通りより 
欠町石ケ崎に移転遷宮をし築山神明宮を本殿下陣に合祀する。>
築山御前首塚」<築山御前は関口形部少輔義廣殿の御息女瀬名姫で今川義元の養女になられました。長男の岡崎三郎
信康公は織田信長公の御息女徳姫を御正室に迎えられましたので、母と嫁とは全くの仇敵となってしまいました。徳姫は
父の権威を背景に我侭の振舞いもあり家康公も信長公を恐れて浜松城に移っても築山御前を迎えようとはしなかった。
築山御前は、浜松・西来寺にて御生害なされました。其の後岡崎御城代石川伯鰭守 菅生郷投村傳寺境内に築山御前の
御首を埋葬し築山明神宮を勧請する。>
大泉寺」<大泉寺は家康の生まれた翌年、1543年、家康の母於大が、安産の祈願をした薬師如来を本尊として創建した
寺です。墓地の一番高いところに於大の遺髪を埋めたという墓碑が建てられています>
於大の墓碑」<於大の墓は東京都文京区伝通院にある。於大は三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘として
享禄元年(1528年)に生まれ天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。3年後に、
兄・水野信元と松平氏の対立により離別。のち阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を
転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。慶長7年(1602年)家康の勧めで上洛し、後陽成天皇に
謁した後、病にかかり伏見城で没す>
冠木門」<岡崎宿の入口にある冠木門>
岡崎二十七曲の碑」<岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。
二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590−1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、このねらいは城内
を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。
二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。>
若宮八幡宮」<創立年月日は不詳、御祭神は、仁徳天皇 ・ 岡崎三郎信康天正七年(1579年)徳川家康公の御長男
岡崎三郎信康公は織田信長の御口難により遠州二俣城にて御歳二十一歳を此の世の果と御自害なされ、御首は
信長方へ実検の上 岡崎へ御差戻しとなった。家康公は涙をこらへ清水万三郎に仰せ付け当地に奉埋する。その後
岡崎城内には種々の怪異変化が度重なり、諸人等は恐れ入り 信康公の御霊を当神社に合祀する。社名を菅生神社と
改める。その後若宮八幡宮と改める。>
岡崎信康首塚」<岡崎の若宮八幡宮には信康の首塚があり、江戸の西念寺(東京都新宿区)には、家康公に従い、
江戸入りした服部半蔵正成により信康の遺髪を埋めた供養塔が建立されている。>

根石原観音堂」<和銅元年(708)、天下に悪病が流行した。 元明天皇の命により、行基が六体の観音像を彫り、
二体を根石の森に勧請し、祈祷をしたところ悪病は治まった。 又、岡崎三郎信康が元正元年(1573)、初陣に際し、
観音像に祈願し、軍功をあげて、開運の守り本尊として、あがめられた>
祐伝寺」<家康の正室・築山御前の墓碑。築山御前と殉死した侍女二人の墓所がある>
築山殿の墓」<徳川家康の正室で、今川義元の姪にあたりる。天文11年(1542)出生。弘治3年(1557)家康と結婚した。
今川義元が仲人として、元服して3年目の家康(竹千代)と結婚した。2年後の永禄2 年(1559)に長男信康が、同3年
亀姫が生まれ、岡崎城へ移った。岡崎城に入った瀬名姫は「築山曲輪」に住むようになった事から「築山御前」呼ばれる
ようになった。築山御前は、家康の生母於大(おだい)の方など織田支持派の反目もあって、耐えがたい12年間を過ごした。
そして天正7年(1579)8月25日、浜松城を目前にして、悲劇のヒロイン築山御前は38歳の生涯を閉じた。>
常夜灯」<この常夜燈(仏式)は旧東海道岡崎の宿両町の街角に火災防止の祈願から遠州秋葉山永代常夜燈として
寛政2年(西暦1790)に建てられたものであります。其の後昭和47年10月22日までその原型を留めて居りました。
其の一部「宝珠」を残しこれを安置保存致したもので岡崎では最も古い由緒ある常夜燈です。>

西本願寺三河別院」<浄瑠璃姫が観月の宴に興じたところといいます。>
小野屋敷跡」<岡崎伝馬町の商人、庄屋。世襲名は権右衛門。伝馬通二丁目の現在地に店を構え、質・米・薬種商で
産をなし、屋号を「大黒屋」という。江戸初期に岡崎に来て、元禄年間(1688〜1703)には伝馬町に居住。
文化3年(1820)には町年寄格・苗字帯刀を許され、文政6年(1823)御用聞頭取となる。現在、22代目>
西本陣跡」<西本陣は中根家がつとめていて、間口12間、建坪約210坪、畳241畳で東本陣と同規模であった>
旧商工会議所」<大正6年、岡崎銀行本店として建てられた、赤レンガと花崗岩の組合せによるルネッサンス風建物
です。戦後、商工会議所として使われていましたが、現在は、市内金融機関の資料館として一般に開放されています。
郷土館とともに、市内に残る大正時代の貴重な建築物>
岡崎藩校跡」<明治2年(1869)9月に設立された岡崎藩の藩校。文の学校である允文館に対し、允武館は武の学校
であり、砲術・剣術・馬術等の武術が教授された。廃藩置県後の明治4年12月に廃止された>
大林寺」<明応2年(1492)に岡崎城主松平信貞により創立されている。江戸時代には末寺2寺(安養院、光善寺)、
塔頭5院(運照院、受福院、福正院、安勝院、正受院)があり、東西130間、南北100間の寺域(今の魚町)を有して
いた浄土宗寺院である>
新田白山神社
」<天文16年(1547)松平広忠が兜の中に納めていた守護神を祭った社といわれている。拝殿の前
には唐弓弦商権治郎家と取り引きのあった大坂弦問屋が、明治2年(1869)奉納した石燈籠が2基残されている>
岡崎公園」<岡崎城の城跡を公園にしたもので、岡崎城や三河武士のやかた家康館を中心と
した歴史と文化の公園です。岡崎公園は「日本の都市公園100選」及び「日本のさくら名所
100選」に認定されています
。>

岡崎城」<岡崎城の起源は15世紀前半まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって
築城されたのがそのはじまりです。その後、享禄3年(1530)に松平清康(家康の祖父)が現在の
位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。天文11年(1542)12月26日、
徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、8歳で今川
義元の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、
今川義元が戦死したことを契機に自立しました。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一と
いう偉業への基礎を固めました。元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に
移し、嫡男信康を岡崎城主としました。天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川
数正、ついで本多重次を城代としました。天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移され
ると、秀吉の家臣田中吉政が城主となりますが、家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名に
ここを守らせました。江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、
水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。
石高こそ5万石前後と少なかったですが、大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられます

「浄瑠璃姫の供養塔」<大志をいだく 源氏の御曹司源義経との恋に破れた浄瑠璃姫は、岡崎
公園の東南を流れる乙川(又は菅生川)に投身した。姫の亡き骸が上がった岸にこの墓が建て
られたが、後に岡崎城内のこの地点に移された>

産湯の井戸
」<江戸幕府初代将軍の徳川家康の産湯の井戸です家康が生まれた時、産湯に
使った井戸>
松葉町総門跡碑」<天正十八年(1590)徳川家康が江戸に移り田中吉政が岡崎城主と
なり総堀を築き城下町を形成し東海道の城内西出入口としてこの地に松葉総門を建てた>
八丁味噌のカクキュー」<岡崎は、古い城下町で、味噌と花火と石製品の町として
栄えてきました。このなかで、味噌と石製品とは深い関わりがあります。 石細工には
良い花崗岩が必要ですが、この地方は花崗岩地質で、良い石が 多く産出されました。
そしてそこからの湧き水が味噌醸造に適していた わけです。加えてこの地は、矢作大豆
と呼ばれる良質の大豆が積れ、また矢作川の 水運により良質の塩も入手しやすかった。
この三拍子が揃って味噌造りが 始まりました。そして当地は岡崎城より西へ八丁の距離に
あったので八町村と云い、 造られた味噌も八丁味噌と呼ばれるようになりました。
カクキュー八丁味噌は、始祖早川久右ェ門勝久が、 この地で味噌造りを始めて以来
味一筋に十八代 (久右ェ門は世襲)、伝統と品質を守り続けています。>
矢作橋
」<慶長6年(1601)に架けられたのが最初で、七十五間(約136m)の土橋であった。
板橋が架けられたのが寛永11年(1634)の将軍家光上洛の時で208間(約378m)の長さで
あった。以来、洪水などの流失で9回の全面掛替えと14回の修理が行われている。明治11年
(1878)に10回目の新橋が完成するまでの約23年間は渡船による通行で、明治元年の明治
天皇東行の際は舟橋を利用していた。今の矢作橋は昭和22年に下流側の隣に架橋工事が
行われ、昭和26年に長さ276mで完成されている>
勝蓮寺」<真宗大谷派の当寺は、天台宗の僧恵堯が師の専信僧都の薬師如来を矢作の里に
御堂を建てて納め柳堂薬師寺と称したことにはじまる。その後、嘉禎元年(1235)親鸞聖人の
帰路の途中、当寺の別当舜行が親鸞の法弟となり恵眼の法名を受け、真宗に改められました。
本尊弥陀尊像は親鸞聖人より与えられたものといわれています。松平八代広忠、家康、信康、
石川日向守などの崇敬が厚かった。>
誓願寺」<長徳3年((997)恵心僧都が、溺死した当寺の住僧の慶念の冥福を祈り、堂を建て
千体地蔵菩薩を造って安置した。寿永3年(1138)3月矢作の里の兼高長者の娘、浄瑠璃姫が
源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建
して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した>
浄瑠璃姫の墓
浄瑠璃姫は、年老いて子どものなかった矢作の里の長者 兼高夫婦が、
日頃から信仰していた鳳来寺の薬師瑠璃光如来にお願いして授かった子といわれる。そのため、
浄瑠璃姫と名付けられたいそう美しく育った。1174年3月、牛若丸(源義経)は、東北地方の
藤原秀衡をたよって旅を続ける途中、矢作の里を訪れ、兼高長者の家に宿をとった。長者の家に
十一日ほど世話になっていたが、ある日ふと一室から静かに聞こえてきた美しい琴の音にひかれ、
持っていた笛で吹き合わせたことから、いつしか二人の間に愛がめばえた。しかし、義経は東北へ
旅立たねばならず、形見として名笛「薄墨」を姫に授け、矢作の里を去った。姫は、義経を想う心は
日ごとに募るばかりで、ついに後を追いかけた。しかし、女の足ではとうてい追いつけず、添うに
添われぬ恋に悲しみのあまり、菅生川に身を投げて短い人生を終えた。時に、姫は十七歳であった。
兼高長者はその遺体を当誓願寺に埋葬した。十王堂をたて、義経と浄瑠璃姫の木造を造り
「名笛 薄墨」と姫の鏡を安置し、冥福を祈った。>


(25)岡崎宿〜知立宿(11.0Km)の先<4月10日>
今朝は幹事のYさんと私の二人は「宇頭駅」から「新安城駅」まで先行して歩く為、朝食を
7時に済ませすぐにホテルを出発。残念ながら雨が降っている。名鉄電車で「
宇頭駅」に
移動し傘をさしながら7時45分歩き始める。「
熊野神社」「予科練の碑」「鎌倉街道跡
一里塚跡」「二本の松」「妙教寺」「永安寺」「明治川神社」を過ぎた所で、後続部隊と
合流する予定であったが、一人が所用で参加できず7名は既に約2Km先を歩いている
事が分かる。一旦は「
無量寿寺」で休憩しているとの連絡で追いつく予定であったが結局、
そこをパスしたが追いつくことができず最後までYさんと二人で歩き続けた。「
御鍬神社
元禄の道標」「来迎寺一里塚」「知立松並木」を過ぎると「知立宿」に入る。江戸時代は
知立神社の池に鯉や鮒がたくさんいた事から「
池鯉鮒宿」と言われていた。「慈眼寺
問屋場跡の碑」「本陣跡」「宝蔵寺」「追腹塚」「知立古城址」を見学して歩いていると
知立名物「
あんまき」の旗がたっている「小松屋本家」があり、休憩をかねて「あんまき」
(140円)を美味しく食べる。「
知立神社」「多宝塔」「総持寺」「刈谷一里塚」「十王堂
洞隣寺」「中津藩士の墓」「めったくやしいの墓」「ひもかわうどん発祥の碑」「乗蓮寺
お富士松」を見学している内に、13時となり「富士松駅」近くの「すき家」で「牛皿定食」
を食べる。先行組は既に最終地「
前後駅」に着いて昼食を食べているそうで電話でお別れ
をした。
13時20分、早々に歩き始める。三河と尾張を分けていた「
境橋」を渡る。「藤原光広の
歌碑
」「阿野一里塚」を見ている内に14時20分、今回の最終地「名鉄前後駅」に到着した。
ここは、急行の停車駅でもある。翌日は、毎回九州から車で参加しているYさんと幹事の
Yさんと私の三人で「岡崎市内」の名所を見学する事にしていたので、昨日と同じ
「東岡崎駅」近くの「岡崎第一ホテル」にチェックインした。先に到着していたYさんと
合流し駅の近くの「
日本海庄や」でお酒と料理を食べながら今日の歩きの情報交換や
明日の予定について話し合った。(今日の歩数:27千歩)<続く>
 
<ホテル前を二人で出発>    <三人で宴会>
   
熊野神社> <予科練の碑> <鎌倉街道跡> <一里塚跡>
   
二本の松>  <妙教寺>    <永安寺>   <明治川神社
   
御鍬神社> <元禄の道標> <来迎寺一里塚><知立松並木>
   
慈眼寺>  <問屋場跡の碑> <本陣跡>    <宝蔵寺>
   
追腹塚>   <知立古城址> <小松屋本家> <あんまき>
   
知立神社>  <総持寺>    <多宝塔>   <刈谷一里塚
   
十王堂>  <洞隣寺>  <中津藩士の墓><めったくやしいの墓
   
ひもかわうどん発祥の碑><乗蓮寺><お富士松><すき家>
   
境橋>   <藤原光広の歌碑><阿野一里塚><名鉄前後駅前>

<写真の説明>

熊野神社<708年(和銅元年)に、豊阿弥の長者が広大な屋敷を構え、熊野大神を尊敬して
おられ、成功を祈って自分の屋敷の北に熊野大神の分神を祀っておられたようだった。後世に
村の鎮守の氏神様として崇め、現在地に村社熊野神社として祀るようになったと伝えられている。
当社は、神社大鳥居の前で鎌倉街道と旧東海道が交差するところから「踏み切りの宮」とも
呼ばれ、境内の神域は広く、約24アールもある

予科練の碑<昭和十九年二月、若き精鋭を鍛えるため、海軍はこの地に練習航空隊を設置、
昭和十九年四月岡崎海軍航空隊となり作戦機能も独立して本格的訓練が開始された。本航空隊
は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、昭和十九年五月入隊の一期生より、十二月
入隊の八期までその数およそ六千名と記録されている。>
鎌倉街道跡」<192年(建久三年)鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に鎌倉街道が
定められ宿駅六十三ヵ所が設置された。尾崎町では、里町不乗の森神社から証文山の東を通り、
熊野神社に達していた。街道はここで右にまがり、南東へ下っていったのでこの神社の森を踏分の
森と呼んでいる。>
妙教寺」<開山日喜は永年悪質の眼病に悩み続け、種々治療を試みてもその効がなかったが、
鎌倉街道沿いに建つ稲荷を祀る祠に籠もり、一心に法華経を読誦し一夜霊夢を視るや忽然と眼病
が平癒した。この驚きと喜びに意を決し仏門に入り、明治36年、自宅を志貴教会となしたのが
当山の創立である。昭和25年10月11日、2世日徳代に法喜山妙教寺とした>
永安寺」<貧しい村人のために助郷役の免除を願いでて死罪になった大浜茶屋村庄屋の柴田
助太夫の屋敷跡です。ここにある樹齢三〇〇年くらいのクロマツの巨木は、中心の幹が上へ
のびず、分かれた幹が地をはうようにのびて、その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を
思わせるので「雲竜の松」と俗に呼ばれています>

明治川神社」<文化五年(一八〇八年)頃、都築弥厚翁が碧海台地の開発を計画されてより、
七十余年の歳月を経た明治十三年(一八八〇年)四月用水路竣工の式(水源)と、祝賀の宴
(現地)が盛大に挙行された。その時の一同の歓喜と感激とがここに結集して神社を創立する
こととなつた。>
御鍬神社」<江戸時代に来迎寺村をはじめ、近村の八ヶ村が連合して、伊勢より御鍬神を勧請し、
各村輪番にて御鍬祭を奉仕し、豊作を祈願してきたが、明和年間(1764〜71)にこの輪番が来迎寺
村で終わる事になったことから、社殿を造営し、以後来迎寺村の氏神様として仰ぎ祀ったと言われ
ている。>
元禄の道標」<元禄九年(1696)に、在り原業平ゆかりの八橋無量寿寺への道しるべとして建て
られたものである

来迎寺一里塚」<三河地方で唯一残されている両塚現存の来迎寺一里塚。右塚(北塚)の
大きさは、東西10m、南北9mの方形塚で、高さ3.5mの塚上の松は伊勢湾台風後に植えら
れたものだが、原形をよく残している。>
知立松並木」<この知立の松並木は、幅7m、約500mにわたり凡そ170本の松が植えられ
ている。側道を持つのが特徴で、この地で行われた馬市の馬を繋ぐためとも推定されている>
慈眼寺」<江戸時代の初期に馬の供養の為につくられたお堂から始まってます。その為、本尊を
馬頭観世音菩薩を本尊とし、境内には馬塚があります。福聚山慈眼寺は、鎌倉時代から続く名刹
で、馬頭観音は、江戸時代を通して池鯉鮒馬市の守り本尊で、三河西国三十三観音の二十八番
目札所として信仰を集めてきた。>
問屋場跡の碑」<問屋役は宿役の長で、公文書、人馬の継立、飛脚、宿泊など宿場の業務全般
をつかさどった。>

本陣跡」<本陣とは、江戸時代の宿駅に設けられた、大名や幕府役人、公家等が宿泊する公認
の宿舎である。東海道三十九番目の宿駅である池鯉鮒宿には、本陣・脇本陣が各一軒置かれて
いた。本陣職は、当初峯家が勤めていたが(杉屋本陣)、没落したため、寛文二年(1662)からは
永田家によって引き継がれた(永田本陣)。敷地三千坪、建坪三百坪と広大な面積を有していた

宝蔵寺」<嘉祥3年(850)、慈覚大使創建。亀岳山と号し、曹洞宗。加賀野井弥八郎の墓と水野
忠重に殉死した刈谷の家来二人の追腹塚が境内にある>

追腹塚」<慶長5年(1600)、徳川家康暗殺の命を受けた石田三成家臣、加賀野井弥八郎は、
池鯉鮒宿で刈谷城主水野忠重や駿府城主堀尾吉晴と酒宴中、忠重を殺害した。弥八郎は、吉晴
に討ち取られたが、駆けつけた忠重の家臣は、吉晴が主君を殺害したと勘違いし、吉晴を討ち取
ろうとして果たせず、責任をとって切腹した。忠重の悲劇の家臣二人を供養した追腹塚

知立古城址」<知立神社の神主で、この地域の豪族・永見氏のお城です。十三代目神主の永見
貞春は、保元・平治の乱(1156〜1159)に朝廷側として出陣している。桶狭間合戦では今川方に
属し、合戦後、織田信長に焼かれました。知立城は水野氏の支配下となり天正年間(1573〜
1592)には御殿が建てられ、それが江戸時代に増築され将軍家の宿泊や休憩所となりました。>

小松屋本家」<小松屋は元々、街道筋で旅人に「二つ折り」なる菓子をお茶請けとして出す茶店
だった。二つ折りは、小麦粉ダネを焼き、二つに折り重ねただけの素朴な菓子で、いわば和製
パンケーキのようなものだったという。それでは味気ないと、中に餡を挟んで出してみたところ
評判になった。餡を入れて巻いたので「あんまき」という名前がつけられた。小松屋の初代当主・
神谷為吉(当時25歳)がこの「あんまき」を考案したのが明治22年(1889)で創業年としている

知立神社」<知立神社は、池鯉鮒大明神とも称し、古来三河国第一の名社で、東海道沿線屈指
の大社であります。当神社は、第十二代景行天皇の御代、皇子日本武尊が大命を奉じて東国
御平定の際、当地に於て皇祖の神々様を祭って国運の発展を祈願した。御歴代天皇の御崇敬も
厚く、領主を始め諸大名の崇敬も厚く、参勤交替の途次には必ず神札を拝受せられました>

総持寺」<知立神社の別当寺(神社に付属する寺院)として1616年に創建。明治入った1872年に
一時廃寺となっていたが1926年に復興されている>
多宝塔」<国指定重要文化財(建造物)八百五十年(嘉祥三)天台宗僧円仁が神宮寺を創立し、
多宝塔を建立した。後知立神社の別当寺となった。現存する多宝塔は、1509年(永正六)
重原城主山岡忠左衛門が再建した。三間二層の塔であり、正面に桟唐戸を配し、左右には
連子窓、ほかは篏板張りである。屋根は柿葺で、塔高は約十mあり、室町時代の建築である。
明治の神仏分離令の際には、祀られていた愛染明王を総持寺に移し、相輪を除き、瓦葺にかえ、
「知立文庫」と名も替えて、取り壊しの難をのがれた。>

刈谷一里塚」<ここより東には、来迎寺一里塚(県指定史跡、知立市)、西には阿野一里塚
(国指定史跡、豊明市)がある。>
十王堂」<十王といってあの世で亡くなった人を裁く10人の王をまつる堂で、各地にあった
石地蔵が集められている。>

洞隣寺」<天正8年(1580)曹源寺三世雪山受盛大和尚を開山に開創された。旧東海道に面し、
門前の常夜燈は寛政8年(1797)の建立で、村人が交代で毎夜火をとぼした。「めったいくやしい」
伝説の地で、その墓がある。また寛保2年(1742)知立宿で争って命を落とした中津藩士の二人
の墓がある。>
中津藩士の墓」<寛保2年(1742)豊前国(大分県)中津藩の家臣が江戸勤番を終えて、帰国の
ため東海道を今岡村付近まで来たところで、突然渡辺友五郎が牟礼清五郎に切りつけ2人とも
亡くなってしまったため、2人の遺骸は洞隣寺に埋葬された。ところが2人の生前の恨みからか、
墓がいつのまにか反対側に傾き、何度直しても傾いてしまうので、村人は怨念の恐ろしさに驚き、
墓地を整理して改めてあつくほうむってからは墓は傾かなくなったといわれる。>

めったくやしいの墓」<昔、洞隣寺の下働きに気立てのよいよく働く娘がいた。あるとき高津波村の医王寺へ移り
この寺で働くようになったところ、この寺の住職に一目ぼれし段々と深い思いを寄せた。しかし、青年僧は仏法修行の身
であり娘には見向きもせず寄せ付けなかった。娘は灯明油で髪をなでつけたり紅をつけたりしたが、全くの徒労に終わり、
やがては食も進まずついに憤死してしまった。洞隣寺の和尚はこれを聞いて縁ある者と亡骸を引き取って寺へ葬ったが、
この墓石から青い火玉が浮かび上がり油の燃えるようなと音がしたり「めったいくやしい」と声になったりして、火玉は
吹戸川から逢妻川の堤防をくだって医王寺の方へ飛んで行くのを見たという人が何人か明治の初めの頃まであったと
言う。女の情炎の恐ろしさが語り継がれている。>
ひもかわうどん発祥の碑」<江戸時代の東海道の紀行文にいも川うどんの記事がよくでてくる。
この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも
東京ではうどんのことをひもかわとよぶ。名古屋のきしめんも形は同じ平うどんで、いも川うどんが
西に伝わったと考えられる

お富士松」<桶狭間の戦いで敗れた今川勢が退却した後、旅人がこの今川町を通ったときに今川
勢は相手のまわしものだと思い、この旅人を誤って殺してしまった。それを見た住民は旅人を哀れ
に思い、葬った後にその場所へ1本の松を植えた。その松が成長し「お富士の松」と呼ばれるように
なったと言われている>
境橋」<慶長9年(1604)当時の境橋は、三河側は土橋、尾張側は木橋のいわゆる継橋として
有名で、三河と尾張がそれぞれ分担して建設、修理を行っていました。寛永年間(1853〜)には
東西一様の土橋に改められ、その後、明治11年には木橋に、大正11年には鉄筋コンクリート橋
に架け替えられました。現在の橋は平成6年に架けられたものです。>

藤原光広の歌碑」<うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継目なるらん  光廣
読み手は、京都烏丸に邸宅のあった権大納言正二位、藤原朝臣光広卿で俗に烏丸殿と
称せられた。「にかわ」は接着剤の「膠」と「三河」の掛詞。いわば駄洒落>

阿野一里塚」<東海道の一里塚は、慶長9年(1604)に徳川家康の命により築かれたもので、
明治以降の道路拡張や交通機関の発達でその多くが姿を消してしまいました。「阿野一里塚」は、
珍しく両塚が残っていて東海道の中でも貴重な存在です。国指定史跡>


(特別編)岡崎市内<4月11日>

岡崎宿は徳川家康の生誕地として非常に多くの見所がある。翌日は、毎回九州から車で
参加しているYさんと幹事のYさんと私の三人で「岡崎市内」の名所を見学する事にしていた
ので、朝食を済ませ7時30分にホテルを車で出発した。まずはホテル近くの「
浄瑠璃姫の墓
を見学し、「
六所神社」を見学した後、車で移動しながら「岡崎天満宮」「随念寺」「誓願寺
諏訪神社」「松応寺」「広忠公墓」「伊賀八幡宮」「明願寺」「城山稲荷」「井田城址」「井田野
古戦場跡
」「西光寺」「大衆塚」「千人塚」「大樹寺」「大樹寺多宝塔」「大樹寺松平八代墓
滝山東照宮」「滝山寺」「本田忠勝生誕地碑」「真福寺」「岩津天満宮」「信光明寺」「松平
広親の石宝塔
」「岩津古墳」「北野廃寺址」を「カーナビ」を駆使しながら次々と見学して
回った。午後1時30分を過ぎたが中々途中に食事をする場所が見つからない。
「カーナビ」で食事場所を探しても店が無くなっていたり、食事時間を過ぎて店が閉まって
いたりする。結局14時40分に全国チェーンの「
松屋」で牛めし定食を食べる事が出来た。
食後、「
妙源寺」「妙源寺太子堂」「大乗寺」「本多忠勝の墓」「安祥城址」「八幡社」を見学
した後、今回の最終地「東海道新幹線:
三河安城駅」に到着した。
九州に帰られるYさんと別れ、プラットホームに入線していた16時12分発の「こだま号」に
乗車でき、Yさんと二人でビールを飲みながら今後の予定を話し合いながら帰宅した。
私は新横浜駅経由八王子からバスで午後8時無事帰宅する事が出来た。特に車で案内い
ただいたYさんといつも貴重な資料を作成していただくYさんにお礼申し上げます。
   
<ホテル前の車><浄瑠璃姫の墓><六所神社>  <岡崎天満宮>
   
随念寺>    <誓願寺>    <諏訪神社>   <松応寺>
   
広忠公墓>  <伊賀八幡宮>  <明願寺>   <城山稲荷
   
井田城址><井田野古戦場跡> <西光寺>   <大衆塚
   
千人塚>   <大樹寺>   <大樹寺多宝塔><大樹寺松平八代墓
   
滝山東照宮> <滝山寺> <本田忠勝生誕地碑> <真福寺
   
岩津天満宮><信光明寺><松平広親の石宝塔><岩津古墳
  
北野廃寺址> <北野廃寺址> <松屋>
   
妙源寺>  <妙源寺太子堂> <本多忠高の墓> <八幡社

<写真の説明>

浄瑠璃姫の墓」<岡崎の菅生川(乙川)吹矢橋付近の堤防道路沿いに句碑があります。
「散る花に 流れもよどむ 姫の渕」この付近で浄瑠璃姫が入水したと伝えられています>

六所神社」<第37代斉明天皇の勅願により、奥州塩竈六所大明神を勧進し創建されたと伝えられて
います。また一説に松平初代親氏が加茂郡六所山に勧進したことに始まるともいい、後に家康の祖父・
清康が岡崎在城の頃この地へ移し、家康の産土神とされています。家康が社殿の造営を行い、その後、
三代将軍・家光、四代将軍・家綱により、社殿の改築や修復が行われました。本殿、幣殿、拝殿、楼門、
等が重要文化財>

岡崎天満宮<建保5年(1217)に創建された神社で、東海道「岡崎宿」の総鎮守として崇敬され、
学業成就、交通安全、病気平癒、厄除開運の守り神として崇められています。大東亜戦争時の岡崎
空襲により、社殿・宝物類は悉く灰燼と化しましたが、復興を遂げ、現在に至っている。>
随念寺」<永禄6年(1563)家康公二十五菩薩尊容を城下の石工に命じ御寄進された。元和年中
(1615〜1624)に二代将軍秀忠公は、山門、本堂を大改修。家康が生母於大と生別以来養育してき
た大叔母久子(清康の妹)の墓が建てられている。>

誓願寺」<永禄9年(1566)家康の官位勅許のなかだちをした泰翁のために、寺を建立しました>    
諏訪神社」<1523年岡崎城主松平信貞が諏訪大明神を勧請したと伝えられる。境内には岡崎で最も
古いとされる石燈籠がある>

松応寺」<天文18年(1549) 、家康公の父・松平広忠は、岡崎城内で家臣の(織田氏の諜者ともいわ
れる)岩松八弥に刺殺されるという非業の死を遂げた。広忠の遺骸は能見原の月光院で荼毘にふされ
て密葬されたが、それはこの松応院の境内であったという
永禄 3年(1560)、桶狭間合戦ののちに岡崎
へ入城した家康公は、父の菩提を弔うため、月光院の広忠の墓の近くに寺を建立し寺号を松応寺と
名付けたといわれている。幕府の保護を受けた松応寺は、江戸時代を通じて大いに栄えた。空襲により
廟所等一部を除いて全て焼失してしまった。戦後になって本堂が再建されるが、境内地の多くは商店街
に解放されており、かつての面影はない>
広忠公墓」<本堂裏には、松平広忠公御廟所慶長10年(1605)広忠の57回忌に家康が建立>
伊賀八幡宮」<伊賀国甲賀郡に鎮座する源頼義公を祀る八幡宮を、松平四代親忠が松平家の
守護神・氏神として文明2年(1470)に創建したことに始まる。松平氏、そして徳川家康の危急危難を
いく度となく救ってきたとして代々の崇敬が篤い>
明願寺」<明願寺には、茶人・宗偏(そうへん)流ゆかりの茶道具のほか、宗偏二帖茶室(淇篆庵
(きろくあん)ならびに並水屋があります。この辺りが、伊賀城趾である>

井田城址」<現在の井田城址付近は岡崎市街になっており、井田城址碑は城山公園の中に立てられ
ています。井田城は 酒井家の居城で 岡崎城の支城だった。酒井忠次は、徳川四天王の中で年齢が
一回り上ということもあって、四人のうちの筆頭格とされる事が多い人物です。生まれは大永7年
(1527)で家康よりも15歳の年長。>

井田野古戦場跡」<井田野古戦場は、応仁元年(1467)松平4代親忠と尾張の品野、三河の伊保
の士豪が激しく戦ったところです。西光寺には、勝った親忠が、戦死者を敵味方の区別なく葬った
千人塚と、家康が桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ際、追っ手の織田方と戦って戦死した多くの
僧を葬った大衆塚があります>
西光寺」<家康が桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ際に、追手の織田方と戦って倒れた多くの
僧(=大衆)を葬った大衆塚があります。ここには阿弥陀如来石像が置かれています。>

千人塚」<家康から五代前の松平親忠が、応仁の乱の三河版として、伊勢貞親の東軍に従って、
拳母(ころも)城主中条氏率いる豊田市方面の土豪の軍と戦って勝利しましたが、多数の戦死者が
出ました。その時の戦死者の首を集めて葬ったのがこの千人塚です。>

大樹寺」<安城城主松平左京亮親忠法名大胤西忠が真蓮社勢誉愚底を開山として文明7年(1475)
2月22日創建した浄土宗の寺院である。>
大樹寺多宝塔」<大樹寺の多宝塔は室町時代のもので、この寺に残る中世建築の唯一のものです。
この多宝塔は上下層のバランスもよく、かえる股や木鼻の絵様および彫刻、その他の細部様式にわ
たって丁寧に作られています。国の重要文化財>
大樹寺松平八代墓」<元和元年(1615)徳川家康公は先祖松平八代廟所を寺内に建立しました。
元和三年には家康公の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされます>
滝山東照宮」<滝山東照宮は久能山・日光と並ぶ日本三大東照宮の一つとされています。滝山東照宮
本殿、幣殿、拝殿、透塀、鳥居、水屋などが重要文化財に指定されています。滝山東照宮は徳川三代
将軍家光によって、正保二年(1645年)〜三年に建立されました。社殿は、東照宮風の絢爛豪華な
漆塗りおよび極彩色が施され、かえる股、手狭など江戸時代初期の特徴がみられます>

滝山寺」<保安年中(1120〜1123年)に比叡山の僧仏泉永救が再興した天台宗の寺院です。
正保二年(1645年)徳川家光の名により本堂の隅に東照宮が建立され、幕府の保護のもと繁栄を
続けました。三門(仁王門)は、文永四年(1267年)の建立で、和様建築の伝統を持つ岡崎市現存
最古の建築物です。>
本田忠勝生誕地碑」<忠勝(1548〜1610)は武勇をもって終生家康に仕えた三河武人の典型。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と歌われた。徳川幕府創業の功臣として
井伊直政・酒井忠次・榊原康政とともに徳川四天王と称される>
真福寺
」<鎌倉時代には最も栄え、36坊の末寺を有した。現在は、身体健康と目のお薬師様として
愛知県下はもとより全国より多くの信仰を集めています>
岩津天満宮」<岩津天満宮の歴史は二百五十年ほどではありますが、信光明寺の努力で、江戸時代
から尾張、三河、遠州などから多くのご崇敬をいただいてまいりました。>

信光明寺」<宝徳三年(1451年)に岩津城主松平三代信光が祖父親氏、父泰親の菩提をとむらう
ために岩津に創立したものである。徳川将軍家ゆかりの名刹であり、往時壮麗を誇った堂宇は、
伊勢新九郎(北条早雲)に放火され消失しましたが、焼け残った観音堂は室町中期の建築様式を
今に伝え、国の重要文化財に指定されています>
松平広親の石宝塔」<広親は、松平初代親氏の子で酒井家の祖先です。この墓だけ信光明寺から
離れて岩津小学校の隣接地に祀られていますが、幕末までの寺領がいかに広かったかを物語るもの
です。この墓塔は市内でも最も古い墓塔のひとつといわれています>

岩津古墳<岡崎市北部に位置する岩津地区は,数多くの古墳が発見されている。築造時期は,
古墳時代後期の6世紀後半で,7世紀初めまで追葬が行われていた。岩津第1号古墳は,円墳で
直径18m,高さ3mほどの規模であったと推定される。横穴式の石室をもち,内部は二組の石柱に
よって後室,前室,羨道(せんどう)に区別され,羨道入口にも更に一組の石柱がある。石室全長は
10m,両側壁の最大幅 2.4m,床面から天井までの最大高2.9mである>
北野廃寺址」<矢作川西岸約2qの洪積台地に位置し,境内は土塁(どるい)が四方を巡り東西
126.5m,南北146mに及び,壮大な寺院であったことが偲ばれる。遺構から伽藍(がらん)配置は,
中央に南から塔,金堂,講堂,中門,南大門,僧房が南北一直線に並ぶ四天王寺式であった>
妙源寺」<正嘉2年(1258)の建立で、開基は在地領主となった安藤薩摩守信平である。また三河一向
一揆では家康に味方し、家康はこの寺に難を避けたといわれている。このため、以前から松平氏から
崇敬されていたこともあり、家康から”源”の一字を賜り、それまでの「妙眼寺」を「妙源寺」と改めた
といいます>

妙源寺太子堂」<妙源寺内にある柳堂は国指定重要文化財に指定されています。柳堂は安藤氏が
奉持した聖徳太子御直作の尊像を安置しているので太子堂ともいわれています。様式的には十五世紀
前半(室町時代)になり、浄土真宗寺院の初期の建築様式がよく残る、きわめて貴重な建造物です>
本多忠高の墓」<安祥城祉にある大乗寺北の墓地内にある。第四次安城合戦の先ぽうとなった
松平軍の主将本多忠高は,城外から城将織田信広を本丸近くまで追い迫ったが,この地で戦死した。
その場所に1799年(寛政11)岡崎藩主本多忠典が墓碑を建てた>


知立宿〜石薬師宿

石薬師宿〜土山宿

土山宿〜石部宿

石部宿〜大津宿

大津宿〜京都三条大橋