東洋ライナ−ズのあゆみ
《草創期》
LINERS
昭和43年も暮れに近ずいたころ、吉田明・桜井貴両氏を中心に球団結成の動きが活発
になり、関係者との会合を積み重ね、一年の準備段階後、翌年の昭和45年3月正式に「
ライナ−ズ】の球団名で埼玉県軟式野球組比企支部に加盟、登録を終えた。
球団結成については、全く自然発生的なものであった。雑巾ボールに竹バット、格好つ
けても布のグローブがハイカラで、それでも毎日暗くくなるまで田圃の中を駆け回ったもの
であつた。そうした、竹馬の友として過ごした月日の積み重なりが、今日、日の目を見る
こととなったのである。
「ライナーズ」の名称の由来については、裏話であるが、発足当時とにかく野球がしたい
したっかた。今回の球団結成以前に吉田明氏等の仲間により<ライナーズ>が
結成されていた。しかし、諸事情によりほとんど活動を見ないままに解散の状態にあった。
そこで、球団結成についての構想と展望を説明し、くライナ−ズ〉の名称とユニフォーム
を譲渡していただくための協力を得た。早速、両氏の手で旧<ライナ−ズ>の
選手宅を回り1着々々譲り受けることが出来た。こうして、結成当初の資金難の問題も非常にタイミング
よく解決した。いわば、第二代くライナーズ〉という事になろうか。
新星「ライナ−ズ」の陣容着手が始まる。監督の人選についてあれこれと検討がされたが
やはり、かっての良き少年時代からの僚友の中から、小川町在住の小原邦夫氏に
白羽の失を建てて依頼し、快く引き受けていただいた。抑せて、吉田明氏を主将、 桜井
貴氏を世話役とし中核を固めることが出来た。
<草創期から現状へ>
その後湯本監督となり30数年の年月が経過している。今では20代から50代まで幅広く、
仕事も各職種の人達がおり、情報交換の場ともなっている。こんなチ−ムだから
何か魅力があるんです。
後輩たちに託す日まで、全員で頑張っています。