夜。  昼寝が過ぎた為か、眠れずにいた。  明かりが消えた部屋の中で目を見開いて暗闇を凝視する。  いや、窓から僅かに明かりが入り完全な闇ではない。  ふと、窓から外を見上げる。  綺麗な月。  少し夜風に当たろうかと酔狂な気分になった。  さすがに寒いだろうから、上着を着込む。  そう言えば、翡翠と琥珀さんでパジャマを選んでくれてたっけ。  結局買えなかったけれども、元の俺があれを着る事はあるのだろうか。  庭に出て月を見上げての逍遥。  夜中にこんな馬鹿なことをしているのは自分だけかと思っていたら、先客がいた。  木々が広がる雑木林の手前、大きな自然石に腰掛けて。  月明かりの中、その月光の結晶の如く輝く姿。 「アルクェイド?」 「うん。綺麗な月だね、志貴」 「そうだな」  二人遠く虚空に浮かぶ天体に見入る。 「どうしたんだ、こんな処で」 「けっこう夜来て、こうしているんだよ」 「こんな姿になっちゃったから、俺には興味なくなったかと思ったよ」 「それはないよ、志貴は志貴だから。私は別に志貴が男でも女でも構わないけど。中身が同じ なら。  でも、この家の人達はそうじゃないから、痛々しくて見てられない。私があまり志貴に会い に行かないのはその為かな」 「痛々しい? 誰が……?」 「だから、妹とか二人のお手伝いさんとか。それとついでにシエルも」 「え?」 「気づいてないの?」  アルクェイドが咎めるような顔をする。 「うん」  だって皆、今までと変わらないぞ。シエル先輩はともかく。 「じゃあ見せてあげる」  アルクェイドはそう言うと無造作に俺の体を掴んで小脇に抱える。 「じっとしてないと危ないよ、志貴」 「待て、何を、うわっ」  景色が歪んだ気がした。  アルクェイドのあまりの速さに。  いきなり屋敷の前に立っていた。ちょうど真上は俺の部屋って、わあああ。  地面がいきなりぐんと下に沈んだ。いや、数メートル上空に跳んでいた。  アルクェイドは窓枠をひょいと掴むと、優雅といってよい動きでちょんと着地する。  窓が開けられ、部屋に入る。 「とりあえず台所かな」  手を取られ二人して下へ向かう。 「静かにね」    台所には明かりが点っていた。  こんな時間に……?   「はい、翡翠ちゃん」 「ありがとう、姉さん」  琥珀さんと翡翠……?  火に掛けていた小鍋を下ろすとカップに注いで琥珀さんが翡翠に差し出した。  もう一つ自分用にカップを手に取ると二人並んで椅子に腰掛ける。 「あまりお薬に頼るのは良くないけど、まあそれはおまじないみたいなものだから」 「ごめんなさい。でも、眠れないの」 「体に悪いものじゃないから、平気だけどね」  二人でカップに口をつける。 「志貴さま、今日も治らなかった」  ぽつりと翡翠が言葉をこぼす。 「そうね」 「ずっとこあのままだったら」 「翡翠ちゃん。もうそれは言わないって約束したでしょ」 「うん。志貴さまにお仕えする事に変わりは無いからって。それは分かるけど。  でも志貴さまを見てると……」 「そうね、翡翠ちゃんの方が志貴さんに接する時間が多いしね」 「志貴さまは平気な様子を装っているけど。私があんな処にいなければ、志貴さまお一人なら いくらでもお逃げになることが……」  皆まで言わせず、琥珀さんが翡翠を抱きしめていた。 「今はシエルさんに任せるしかないんだから。せめて私たちが普段通りに接して志貴さんの不 安を和らげないと。ね、翡翠ちゃん」 「うん」  思わず飛び出しかけたところをアルクェイドに襟を掴まれる。  また体を抱えられる。  ほとんど瞬間移動の域に達している動きで別の場所に音も無く動く。  今の二人のやり取りに俺は言葉を失っていた。  なんで二人があんな会話を? 「次はここね」  ええと、秋葉の部屋?  無造作にアルクェイドがノブを掴み、扉を開ける。  ん? 何か不自然な動き。勝手に扉が開いたような、それに鍵は?  すたすたとアルクエイドは秋葉の部屋に侵入する。 「おい、待てよ」  慌てて後を追い、腕を掴む。 「何を考え……」  大きくなりかけた声を飲み込む。 「大丈夫。今は私達の声も気配も無にしているから。多分、正面に立っても意識していない限 り見えないから」  ニコリと笑ってアルクエイドが説明する。 「じゃなければ、あの妹が気づかない訳ないじゃない。いくら後ろ向いて物思いに耽っている からって」  言われて窓辺に目をやると、秋葉の姿があった。  こんな夜更けに明かりも点けずに……。  いつもと違う雰囲気。  さっきのアルクェイドが月光に輝く存在だったとすれば、今の秋葉は月光に溶けそうな儚げ な姿だった。  「兄さん……」  知らずその姿に見とれていると、唐突に秋葉が言葉を発し、飛び上がるほど驚いた。  慌てて弁明をしようとしてアルクェイドに制される。  ……。そうか、気づいている訳ではないのか。 「兄さん、ごめんなさい」  なに……?  何を謝っているんだ?  それに、その血を吐くような哀切な響き。 「遠野の家は兄さんから何もかも奪ってしまった。兄さんの生まれた処を、家族を、命も七夜 志貴という存在も。私は兄さんから有間の家での平穏な暮らしを取り上げて、そして、もしも、 もしも兄さんがあの姿のままなら……、兄さんのこれまでの人生全てを奪う事になってしまう。  今度は遠野志貴という存在をこの世から消し去ってしまう……」  えっ?  ………………。  そうか、そうなるのか。  気がつかなかった。 「なのに、兄さんは、一番辛いのに、何でもない風を装って。痛ましくて見ていられない。  今の私には何もしてあげられない。  あの時、あと少し早く気がついていれば。あんなに夢中になっていなければ、どんな事をし てでも兄さんを守ったのに。  せめて、兄さんが私を恨んで罵って下さればずっと楽なのに……」  嗚咽。  あの秋葉が泣いている……。  呆然としている俺をアルクェイドが引っ張ったらしい。  気がつくと自分の部屋に戻っていた。 「知らなかった。秋葉も翡翠も琥珀さんもあんなに気に病んで苦しんでいたなんて」 「言っとくけど私も別に平気な訳じゃないよ。中身が志貴ならいいって言ったけど、さっきの 妹みたいに、あの時私が傍にいれば止められたのにって、そこは残念に思っているよ。多分、 シエルもね」  それは、まあアルクェイドにせよ、先輩や秋葉にしろ、俺よりは上手く対処できたとは思う。 「そのうち元に戻れるだろうって、俺は平気でいたんだけどな」  逆にそうした振る舞いが、皆の負担になっていたとは。 「志貴のそういう処、凄いと思うけどね」  呆れた様にアルクェイドがぽつりと呟く。 「俺は元に戻れないのかな」 「さあ」 「さあって」 「戻せるなら戻しているもの」 「そうだよな」  もっともだ。  何か方法があるなら、当の昔にシエル先輩が何とかしてくれていただろう。 「でもね、その姿は……、志貴が望んだ姿なんだよ」 「俺が……?」 「うん。言い換えると、元の姿にしかならない筈なのに戻らないのは、志貴が戻りたくないと 思っているから。シエルが言ってたでしょ、志貴の魂に従って体が復元されているって」 「……」 「帰るね。志貴は志貴のしたいようにしていれば良いと思うよ。このままで変わらないなら、 それはそれで妹達もいつかは慣れるから」  おやすみ、と言い残して窓枠からアルクェイドはすっと消えた。  反射的に返事を返したような気がするが、俺は深く思考の渦に耽溺していた。  これが俺の望んだ姿?  鏡を覗き込む。  少し泣きそうな顔をした少女がいる。  基本的な顔立ちが酷似している遠野志貴でない遠野志貴。  元の姿を拒否して俺が選んだという姿。  わからない。  何故、こんな事を望んだのか。  女になりたかったのか、心の底で?  いや、違う。  別にそんな願望は持っていないし、ただ俺は普通の生活を……。  ……?  何か引っかかった。  何かを、恐らくは正しい答えをなぞっている感覚。  ……。  そうか。  何とはなく分かった。  遠野志貴は平穏な暮らしを望んでいたんだ。  自分をめぐってアルクェイドとシエル先輩と秋葉が場所・時を選ばず騒ぎを起こしたり、始 終死を馴染みのものとする生活ではなくて。  少なくとも、日常生活の中の理不尽な死の瞬間に、そうではない生を強く願ったんだ。  それが再生の時に強く作用しているのだろう。  だから、俺は女の子になり、直死の魔眼を失い、そして不思議と俺だけがその境遇に馴染ん でいるのだ。  でも、まだ俺はこれを望んでいるのか?  秋葉、翡翠、琥珀さんという一番身近な人達を悲嘆の中に追い落とし、シエル先輩やアルク ェイドにも心配をかけている今の状態を?  俺はそんなものを望んでいない。  こんな事で俺一人安穏としている位なら、元の姿でただ一人難儀している方が遥かにマシだ。  気がついたら七ツ夜の短刀を手にしていた。この姿に変じて初めての感触。  何故かやるべき事を体が知っていた。  本来の遠野志貴たらしめていたモノが抑圧されて今の姿を取っているのであれば、今の姿た らしめている何物かを取り除けば元に戻るはず。  今の自分には直死の魔眼の力は無い。  だが、自分や他の人に見える靄のようなもの、あれは形を変えたものではないだろうか。  浄眼と言われる不可思議な力は今の自分にもある筈。だが、それは直死の魔眼として顕在化 しておらず、僅かにその力を漏らしているのではないか。  理屈ではなくそう考えると、無造作に右胸にある帯状の靄に沿って刃を走らせた。  でも、これって死……。  考える余地も無く意識が途絶えた。 §  §  §  朝の日差しがが目に当たっている。  妙な体の疲れを感じつつ、目を開いた。  学校行かなきゃなあ。  伸びをしつつ上体を起こす。  ベッドの横に人の気配がある。  いつもの「おはようございます」という声が無いな、と思いつつこちらから声をかける。 「おはよう、翡翠。それに琥珀さんに、秋葉に、シエル先輩、アルク……」  ちょっと待て。  なんで朝っぱらからこんな面々がベッドの横に勢揃いしているんだ?  いやいや、それより前にもこんな事があったような?  ……ようなじゃなくて、あったよ。  何だ、どうしたんだ今回は。  完全に上半身を起こして声をかける。 「どうしたんだ、また勢揃いで……」  おや、違和感が……。 「兄さん」  いきなり秋葉に飛びつかれた。 「な、なんだ」  泣き笑いの表情の秋葉の体を受け止める。  ?  な、なんだ、これは一体。  あれ、秋葉が腕の中に収まる。  それに、この感覚は……。  秋葉をなだめながら、他の面々に目を向ける。  無言の問いかけに、皆が安堵の表情で答え、次いで俺の視線の下の方へ非難にも似た目を向 ける。 「志貴さん、これ」  琥珀さんが手鏡を渡してくれた。  一瞬躊躇う。  そして意を決して鏡を覗き込んだ。  ・  ・  ・   しばらく振りの馴染みの顔が映っていた。 「戻っている」  元の正真正銘の遠野志貴の姿だった。 「なんで……?」 「なんで、じゃありません」  いきなり腕の中にいた秋葉が大声で叫んだ。  うわあ。  奇襲に体が一瞬ビクと硬直する。  おまえ、泣いてたんじゃなかったのか。 「いったい何をしたんです」  ぱっと身を話して秋葉が詰問する。  怒っている為か顔が紅潮している。 「私もお聞きしたいです」  今度は翡翠の声。  さっきまで翡翠も泣きそうな顔だったのに、今はきつい表情だ。 「私がお部屋に伺った時、志貴さまはお眠りになっていました。 「うん」  まあ、今起きたんだから、眠ってたんだろうな。  朝寝坊を怒っているのか? 「パジャマの胸が大きく裂けて、ナイフを片手に握られて、死んだように……」  言葉が続けられず、泣き顔になってしまう。  琥珀さんが抱くようにして宥める。  俺の方に非難の眼差し。  いや、琥珀さんだけでなく、秋葉もアルクェイドもシエル先輩も似たり寄ったりの表情。 「大騒ぎだったんですよ、兄さん。  翡翠が血相を変えて、兄さんが自殺したと飛び込んできて」 「なに?」  いや、そう見えてもおかしくないのか。あの状況だと。 「琥珀と調べてみると、体に異常はありませんでしたが」 「その時には遠野くんの体は、元に戻っていたんですよ」  シエル先輩が言葉を取り、秋葉に睨まれる。 「先輩はなんで」 「今日はお休みですし、朝から来たんですよ。そしたら騒がしくなっていて。 いったい何をしたんです、遠野くん。あれだけ何をしても徒労に終わっていたのに」 「本来の俺にしていた流れを止めて別の姿を取らせていた流れを、線を切った」 「線が見えたんですか?」 「線は見えなかったけど、何かもやもやしたモノがずっと見えてて、これかなって」 「そうですか。もともと遠野くんの眼は常ならざるモノですから。そんな芸当が出来ても不思 議ではありませんが。  で、それを何で昨夜急に行ったんです?」  先輩の詰問の調子は弱くならない。 「アルクエイドと話をして。このままじゃいけないって」 「ええっ。私は別に夜中に一人で危ない事しろ、なんて言ってないよ」  心外といった口調でアルクェイドが文句を言う。 「そうです。何で私なり、秋葉さんなりサポートできる人が傍にいるときにそういう事をしな かったんです、遠野くん?」 「え? そう言えば……」 「そう言えば、じゃありません。まかりまちがって命を落として、一人で冷たくなんて事にな っていたかもしれないんですよ」 「……」  うーん、ただでさえ心配をかけて、秋葉達が心を痛めていたのを知っただけに、何も弁解で きない。 「ごめん。無茶したつもりはなかったんだけど、心配をかけたのは謝る。  でも、元に戻れたんだし、終わり良ければ、って事で許して欲しい」  頭を下げた。 「まあ、大事には至らず、兄さんの姿も元に戻ったんですし……」 「良かった、志貴。私、元に戻れなかったらどうしようかと思った」  唐突に、秋葉を押しのけるようにして、アルクェイドが抱きついてきた。 「……っと。おい、昨日と言ってる事違うぞ」 「でも心配したのは同じだもの」  真顔で答えてぎゅっと抱きしめられる。  うわあ、胸が、胸が、胸が。 「何をしているんです、あなたは」  ぐいと体が持ち上げられる。  いや、アルクェイドが首根っこを掴まれて引っ張られ、それにくっついて俺の体も宙に浮き そうになっていた。  シエル先輩の力技だった。 「何よ、邪魔する気?」 「何をドサクサまぎれにやっているんです」 「そうです。兄さんも無事に元気になりましたから、もう戻ったらどうです。シエルさんもい ままでありがとうございました。もうわざわざ当家まで足をお運びいただかなくても後は家の 者で充分ですから」 「ほう、用済みとなったら、手の平返しで門前払いですか。さすがお金持ちは違いますね」 「そうそう。志貴を独り占めしようと言う気ね」  おーい。  今まではそれなりに共同戦線張ってたみたいなのに。  また、三竦みでの対峙が目の前で繰り広げられていた。  琥珀さんは面白そうにそれを眺め、翡翠は少しおろおろしつつも一歩後ろへ退いて静観の構 えを取っている。  はあ、と溜息をついてどう場を収めようかと考えた。  これが、俺の望んだ事なのだから。  望んでいるんだよな……。  早まっていないよな……。  多分……。     《FIN》 ―――あとがき  まず、一言。  この作品はHP開設2,000HIT記念として、キリ番踏んでいただいたYouさんに捧げます。  テーマ貰って書きますよという形式で「志貴が女になる」というのを頂いて、トライしました。  多分、もっとドタバタのコメディーっぽいのを期待されたと思うのですが、何故かこんなのに。  その手の書くセンスが無いのと、「歌月十夜」でのおまけシナリオ公募で似たようなの書いた ので(ちなみに画面に常時○○出ずっぱりというのが面白いかなあ、と思って拵えて、文字だけ で見るとションボリという出来でした……)、方向性を変えてみました。  しかし何で鬱話になるかな。草案から多少弱めにはしましたけど。  しかし一気呵成に書かないと、なかなか書けないものですね。  自分でも面白いのかつまらないのか何なのか麻痺して良くわからなくなっています。  多少なり楽しんで頂ければ嬉しいのですが。    by しにを (2001/12/16)  


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