あやとり遊び
作:しにを
「ただいま」
玄関の扉を閉めながら、一応は型通りの言葉を口にした。
珍しく翡翠の姿は見えなかった。
普段は嬉しくはあっても、「悪いな」とか「そこまでしなくてもいいのに」
とか思う気持ちが僅かに生じるのだけど、いざ出迎えはともかく姿も見えない
となると、物足りなくなる。
勝手なものだな、と反省。
普段、学校から帰る時とかならともかく、休日の午後なんていう対象範囲が
広い不確定な時間を翡翠に待っていろ、というのはあまりに身勝手だ。
ただでさえ、信じられないほどの仕事をこなしているのだから、翡翠は。
ともかく、そんな無人の雰囲気の広い庭をてくてく歩いて、邸内に入ったの
だけど、そこもまた翡翠や琥珀さんの動いている様子はなかった。
「あれ?」
しかし、まっすぐ部屋に戻らずにお茶でも飲もうかと居間へ向かった俺は、
驚いて足を止めた。
誰もいないと思っていたそこには、琥珀さんがいた。
ソファーに浅く腰掛けて、少し前かがみになって何やらやっている。
声を掛けようとしたが、俺にも気付かない様子に好奇心が湧いた。
何をやっているんだろう?
そっと足を忍ばせて、回り込むように近づく。
少しずつ、細心の注意を払って。
……。
って言うほどたいした行動じゃないのだけど。
ほんの数歩で琥珀さんの様子は見て取れた。
ふうん?
琥珀さんは意外な、そう、意外な事をしていた。
俯き加減の目の前で、両手を動かして。
遠目には奇妙に見えたその、指をひらひらと動かし、手首を捻らせ、手と手
を合わせたり離したりの行為、それは……。
「あやとりか……」
思わず小さく声が洩れた。
琥珀さんがしていたのは、輪にした糸で戯れる、あやとりだった。
さっきの奇妙に見えた手の動きも、複雑に指に絡めた糸をさらに絡め、解き、
縦を横に、上を下にと動かすといったもっともな行為であったと知れた。
今の俺の呟きにもまったく気付かないほど熱中している。
どうにも声を掛けづらく、かと言って回れ右をするのも変だしで、そのまま
そろそろと琥珀さんに近づいた。
どうにもそうやって一人戯れている琥珀さんというのは、新鮮な眺めだった。
まるで子供のような。
そう思った時、何故か微笑とは違う表情が俺の顔に浮かんだ……、と思う。
何故だろう。
その光景にどこか……?
琥珀さんが、普段の笑みをほとんど消しているからだったかもしれない。
「あら?」
ほとんど手を伸ばせば触れられるほどの近くに来た俺に、琥珀さんは気付く。
影絵のきつねのような手になったまま、顔を上げた。
見つめ合って、ほんの二三秒。
琥珀さんは真っ赤になってしまった。
「やだ、志貴さん、酷い」
「え? 何がさ」
「こっそり近寄って、もう、恥ずかしい……」
「別に忍び足なんてしてないよ、熱中してて気づかなかっただけだって。
それに別に恥ずかしくはないでしょう?」
恥かしいんです、と言って琥珀さんはぱっと立ち上がった。
複雑な図形を描いていた糸はぐちゃぐちゃの混沌を現して、さっと琥珀さん
の背後に消えてしまった。
「お茶でもいれますね」
琥珀さんはぱたぱたと逃げるように台所に消えてしまった。
「すみませんね、お出迎えもしないで」
「いいよ、そんなの。琥珀さんだって休憩の時間だろ?」
お盆を片手に現れた時には、いつもの琥珀さんに戻っていた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう。玄米茶か、珍しいね」
「こういうのもたまにはよろしいでしょう?」
同意しつつ、独特の風味の香りを啜る。
完璧な温度で煎れた緑茶の口に含んだ時の風味や、いろいろ焙じ方を工夫し
てくれる焙じ茶の香ばしさも良いけど、これも優しくてほっとする味だ。
「うん、美味しい」
一心地ついて、俺は琥珀さんに話し掛けた。
「でも、意外だな、琥珀さんがあやとりなんて……」
「あ、話を戻してしまいましたね」
「ごめん」
「いいですよ」
そう言うと琥珀さんは湯呑み茶碗を置いて、袂からさっきの糸を取り出した。
ぱっぱっと橋とか亀とかのポピュラーなのを、それから松に雪とか、柳とか
雛人形とか、俺が知らないモノも披露してくれた。
「上手いものだなあ」
「子供の頃によくやりましたから」
その笑みが微かに。
本当に微かに。
いつもとは違う硬さを見せていた。
子供の頃?
琥珀さんが子供の時には……。
はっとして琥珀さんを見つめる。
顔が強張っているのが自分でもわかった。
琥珀さんはしまったと言いたげな顔をして、その笑みを苦笑に変える。
「やだなあ、志貴さん。
変に深読みしないでください」
「うん……」
でも、考えてしまう。
俺や秋葉達が外で遊んでいる間、部屋からそれを眺めていて。
広い庭の外れの方や、森の中とか、俺達の姿が見えない時には琥珀さんは一
人でそうやって、慰めとしていたのだろうか。
さっきの熱中はしていても、楽しそうというより心を埋没させているかのよ
うに見えた姿。
その姿が、実際に見たわけでない幼い琥珀さんの姿に変換される。
僅かに心に痛みを覚えるような少女の姿。
「志貴さんってば」
「え、はい」
琥珀さんが溜息をつく。
そして穏やかな調子で言葉を口にした。
「あやとりはずっと前に、こちらに来る前に憶えたんですよ。
誰に教わったのかは憶えていませんけどね。翡翠ちゃんはこういう細々した
のは苦手であまりしませんでしたけど、わたしは性に合ったのか、一人でいろ
いろ難しいのを作ったりして遊んでいたんです。
私の小さい頃の楽しかった遊びなんですから、だから、あまりその、そうい
う眼で見ないで下さい」
「ごめん」
「謝られる事でもないですけどね」
ちょっと二人とも黙ってしまう。
その間も琥珀さんの手はそこだけ独立しているように動き、複雑な糸の図形
を形作っていた。
「でも、琥珀さんがあやとりしているのなんて初めて見たな」
「うーん、しばらく手にとってすらいませんでしたから」
「そうなんだ。じゃあ、なんでまた?」
琥珀さんは手を止めてちょっと考え込む。
「どうしてでしょうね。たまたま昔のを見つけてとかではないですし……。
ずっと今まで忘れていたんですけどね、今日お掃除をしていたら何かの拍子
で思い出して、そしたら我慢できなったんですよ」
「そうなの? でもずっとしてなかったのに、随分と上手いね」
「意外と手が憶えているものですね。やっぱりわたしに合っているのかな」
料理とかでも器用に動くものな、と琥珀さんの手を見つめる。
白い指が宙で舞う様に動く。
紅い糸とのコントラストで、それは妖しくすら見える。
魅せられたように目を奪われた。
「こうやって自分の手で糸を操って、いろいろなものを描くんです。
それは束の間の姿で、後には形として残らないですけど。
何度も繰り返して、そして新しいものを……」
独り言めいた琥珀さんの言葉。
もしかしたら俺にではなく、自分自身へ語っていたのかもしれない。
その言葉を頭で反復させながら、糸を弄ぶ琥珀さんの顔を見る。
なんだろう。
ふと、琥珀さんが違った事をしているように見えた。
糸を自分の手で動かし、
さまざまな姿を描き出し、
そしてそれは確かにあれども後には残らない。
繰り返し考え、試し、新しい絵を描いていく。
かつて琥珀さんが、この屋敷の中で行って、あるいは行おうとしていた事。
それが思い出された。
子供の遊びをしている琥珀さんの姿が、どこか怖く……、思えた。
「志貴さん」
「……あうッ」
びくんとした。
琥珀さんがちょっと睨んでいる。
「ええと、琥珀さん?」
「志貴さん、何か変なこと考えていたでしょう」
「いや、その……」
「志貴さんは顔に出やすいんですから……。変に深読みしないでください」
うん、と頷く俺をやれやれと言った感じで見て、琥珀さんは、両手を俺の前
に差し出した。
「琥珀さん、何?」
「わたしだけしてるからいけないんですね。と言う事で、志貴さんも一緒にや
りましょう」
「一緒にって、俺もあやとりするの?」
戸惑って声を上げたが、琥珀さんはいたって真面目に頷く。
そして早くと促すように手を動かした。
躊躇いつつも手は自然に動いて、琥珀さんの形作った輪を捻り自分の指に絡
め取った。
「あら、志貴さん上手いじゃないですか」
「実は多少なら経験あるから」
琥珀さんが今度は横の糸を捻りつつ糸を取るのを見ながら答える。
「有間の家にいた頃に、都古ちゃんの相手をした事があったからね」
今度はこちら。うーん、親指を支点にして引っくり返して……、よし。
「そうですか。それは喜ばれたでしょうね。
翡翠ちゃんは、なかなかお相手してくれなかったんですよ」
一人遊びのさっきと比べると少々軽妙さが欠けるものの、それでも自在に糸
を操る琥珀さん。
それにアドバイスも受けつつ、対処する俺。
意外と始めてみると、楽しい。
時折、主として俺が収拾がつかなくなってご破算にしたものの、何度も二人
で顔を近づけあって、手と指のみを動かして、午後の一時は過ぎた。
そろそろ夕食の支度をしますね、と琥珀さんが立ち上がった時には、驚くほ
ど時間が経っていた。
そんなに熱中していたのは、俺だけではなかったと思う。
「また、遊んで下さいね」
そう言い残した琥珀さんの顔には、残念そうな色が確かにあったから。
一人残され、何とはなくそのまま部屋に戻りたくなくて、二人あやとりの間
で教わった天の橋立とか、鶴とかを形作ってみた。
……やはり琥珀さんのそれとは今二つくらい違う。
こうですよ、とやって見せてくれた琥珀さんの顔が浮かぶ。
それは、純粋な笑顔で。
こちらも嬉しくなるような……。
こんな遊びをしている琥珀さんには、いちばん似合う表情だな。
紅い糸を弄びつつ、そんな事を思った。
《了》
―――あとがき
どうも琥珀さんと志貴の組合せだとしんみり系統とか他愛ないお話になるよ
うです。
子供時代、一人で何をしていたのかなあ、と言う辺りから。
もっと絞れば『天抜き』で収まってしまいそうな話ですが楽しんで頂ければ
嬉しいです。
by しにを(2002/10/10)
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