『目覚めのキス』  作:しにを  早朝、翡翠はいつも重大な使命感をもって志貴の部屋を訪れる。  志貴付きのメイドとしての仕事が、決して短くない時間の中に幾つも積み重なっているのだから。  規則正しい一日の始まりを告げる事。  天候や知りうる限りの予定について報告をする事。  着替えを速やかに行わせる事。  志貴に栄養のある朝食を取らせる事。  先に食堂へ向かった志貴のベッドを簡単に整える事。  鞄を手に下に降りて、お見送りをする事。  その他諸々、志貴の学校での予定によっても、いろいろと派生の準備が加わる事になる。  気負わず、しかし昂然と。  どちらかと言えば、決闘に向かう武士にでも似合いそうな表現ながら、背筋を伸ばして廊下を歩む翡翠の姿は、そんな気概がこぼれ見えるのだった。  まずは、志貴さまのお目覚めを。  言葉ならぬ決意が目に溢れている。   しかし、それは最初の一歩で躓き、頓挫する。  爽やかな目覚めをもって起き上がり笑顔を見せる筈の志貴は、定刻になっても眠ったまま。  声を掛け、それを大きくし、体を揺すってもみる。  それでも志貴は目を覚まさない。  結局は翡翠は志貴の頬に生気が戻るのを、じっと寝顔を眺めて待つしかない。  そして、本来ゆったりとした余裕を持つ筈の朝の時間は、惰眠により食い潰されてしまう。  志貴は慌しく着替え、咀嚼もそこそこに朝食を終え、行って来ますの挨拶もそこそこに走り去っていく。  その度に翡翠は沈み込むような深い敗北感を覚える。  それなりの自負があるメイドとしての仕事、それを果たせなかった屈辱を感じる。  自分がマイナスの感情を覚えだけにらば、まだ良い。  ささやかな誇りが傷つけられようと、それは使用人の胸中の問題に過ぎない。  でも、翡翠は知っている。  もう一人の主人である秋葉が、ぎりぎりまで登校せずに志貴の目覚めを待っているのを。  ほんの僅かでも志貴と顔を合わせて少しばかりの言葉を交わす事を、毎朝どれだけ楽しみに待っているのかを。   姉の琥珀が滋養のあるもの、志貴の口に合うものをと、日々いろいろ工夫をして朝食を作っているのを。  あまりに遅く起きたので、ほとんど志貴が口をつけられなかった皿を溜息と共に見つめるのを。    そうした姿を目にして、時に志貴への怒りすら感じる事があるが、瞬時にそれはいたらない自分を責める言葉に変換される。  どうしたら志貴さまにもう少しだけでも早く起きて頂けるのだろう。  それは翡翠にとって何よりの悩みになっていた。  考え、いろいろと工夫し、挙句の果てには当の本人に訊ねてみたりもした。  志貴にしても後ろめたい感覚はあり、何とかしたい、さりとて安請け合いも出来ないというジレンマの中で返したのは、次の回答だった。   「翡翠がお目覚めのキスをしてくれたら、早く起きられるかもしれないな」  半分は冗談、半分はその場しのぎ。  起き抜けに思いつめた顔の翡翠から問い掛けられ、他にまっとうな答えなど思いつきようもなかったというのもあるだろう。  志貴の予想だにしない言葉に対し、翡翠は返答をしていなかった。  ただ、当惑したように志貴を見つめただけ。  志貴は翡翠を見て、慌てて話題を着替えと朝食に関する事に切り替えた。  翡翠はそれに対しては、きちんと応対をし、志貴は部屋から出て行った。  それでその場は終わった。  つまり主人の命に対して、翡翠は明確に拒否をしていなかった。  志貴も言った事を取り消してはいない。  さりとて、深く頷いてもいなかった。  依頼され、受託はされていない宙ぶらりんな状態。  つまり、まだ有効であった。  その時に「志貴さまにくちづけを致します」などと、「承りました」な返事をしていたら、それは志貴によって狼狽しながら冗談だと打ち消されていたかもしれない。  それを予想して翡翠があえて黙っていたなどと言う事はない。  ただ、そんな方法もあるのかと心中に刻んでいただけ。  いつか試してみようと深く強く確かに心に誓ったのだった。  そのいつかは一日後、正確には23時間と12分後に訪れた。    眠れる志貴。  それは、志貴であって志貴ではない。  禅問答のような背理する事象ではなく、翡翠の心中での受け止め方。  澄んだ眼も、優しい笑みも、志貴と共に眠っている。  時に何を考えているのだろうと翡翠を悩ませはするが、しかし概ねは翡翠の心を温かくする言葉も、息を潜めている。  今の志貴からは何もかも失われている。  本当に人形か、彫像ではないかと疑わしくなる程。  ただ眠っているだけなのは、翡翠には良くわかっている。  でも、疑うまではいかないまでも、目覚めの兆しに、なんだか不思議な働きを見ているような気がする事はあった。  こんな蒙昧な思いは、志貴どころか、姉にもとても言えない事であったが。  ともあれ、志貴だと思うと出来ない事が、志貴に酷似した人形だと思うと可能となる。  普段の幾層もの障壁が、紙のように薄くなってしまう。  間近でその寝顔をじっと見つめる事も。  髪や頬に手でそっと触れてみる事も。  自分のに比べればずっと大きな手を握ってみる事も。  人に言えぬ背徳感すらある、秘密の行為。  どきどきしながら、主人の体に触れる真似を翡翠は恥ずかしく思う。  でも、誰も知らない秘密の行為を、いけない事だと思いながらする事には、驚くほどのスリルと喜びがあった。  額と額をちょんとくっつけてみたり。  これは、翡翠の姉が、志貴が風邪を引いた際にしていて羨ましかった行為。  頬を擦り合せてみたり。  これは、酔っ払った秋葉が悦にいった表情でしてみせた行為。  今までにしてきた幾つかの接触とささやかなるエスカレート。  しかし、今朝は、それまでとは隔絶した事をしようとしている。  一線を踏み越えるどころではない、羽ばたき遥か遠くへ飛翔する行為。 「いきます、志貴さま」  今までに体験した事のないほど、志貴の顔が間近に迫る。  軽い呼気が触れ、垂れた自分の髪が志貴の顔に触れる。    あ、志貴さま。  志貴さまの唇。  触れた。  思っていたよりも柔らかい感触。  自分で唇に触れるよりも柔らかくすら感じるのは、唇同士だからだろうか。  火に触れたように瞬時に顔が後ろに戻りそうになる。  でも、その反射的な行為を翡翠は意志で封じ込めた。  唇を軽く触れ合わせたままでいる。    息苦しくなって、ようやく顔を上げる。  ずっと呼吸をしていなかったた。  口でも鼻でも。吸うにしても吐くにしても、その最中にしていいものか翡翠にはわからなかったのでともかくも止めているしかなかった。  まるで走った後のように息が上がり、大きく何度も息を吸って吐く。  心臓もどくどくと早鐘のよう。  きっと真っ赤になっている。翡翠には確信があった。  志貴さまはお目覚めになるだろうか。  待つ。  期待を込めて待つ。    どうお目覚めになるだろう。  普段と変わりは無いだろうか。  不思議な顔をなさるだろうか。  まさか気付かれてはいないだろう。  でももし、何かおかしいと思われたら。  傍にいるメイドに訊ねたら。  とぼけられるだろうか。  そ知らぬ顔を出来るだろうか。  もし。  もし、本当の事を答えたら。  志貴さまの唇に口づけしたのだと答えたら、志貴さまはどうなさるだろう。  驚くだろう。  信じられないと言うだろう。  冗談だとお思いになるかもしれない。  でも、嘘偽り無い言葉だと信じられたら、そうしたら……。  頬を真っ赤にしての、それだけで志貴が奇異の目を向けるであろう表情で翡翠は志貴を見つめる。  志貴の変化を僅かばかりも見逃すまいと見つめる。  しかし、何も起こらない。  5分。  10分。   「……志貴さま?」  声に失望が混じる。  何か間違っているのだろうか。  何かが足りないのだろうか。    誰にも相談できなかった。  およそ相談できる類いの事ではなかったし、それに翡翠には恐怖もあった。  例えば姉に打ち明けたとして、論より証拠とばかりに志貴の部屋に行ったらどうなるだろう。  あっさりと琥珀の唇によって志貴が目覚めてしまったら。  もしかしたら、役目は交替になるかもしれない。  頑張っても姉に届かないものがある事を、翡翠はよく知っていた。  それに、「琥珀さんの方が気持ちよく目覚められるなあ」と志貴が呟いたら……。  志貴さまが望まれるのならどれだけ未練があろうとお言葉に従おう。  そう翡翠は思うが、それでも出来る事なら自分自身の力でまずは解決を図りたい。  でもどうやって。  思考は堂々巡りを続ける。  恐らくはそのままであれば、解決を見ぬままただ時は流れていただろう。  だが、変化は訪れた。  実践もさる事ながら、知識に乏しい翡翠に、補完するような出来事が。  それは掃除の時だった。  誰に見せても問題なしと判断されるほど、翡翠は志貴の部屋を片付け綺麗にしている。  志貴の部屋だけではないが、より熱心になっているのは確か。  その翡翠だからこそ、気付いたのだろうか。  ベッドを少しずらして床を掃除していた時、翡翠は違和感を覚えた。  どこをどうやって細工をしたのか、ベッドのある壁の下の部分が、 好ましく思えるものや、恥ずかしさを感じながらもなるほどと頷けるものがあった。 しかし、理解できぬもの、嫌悪すら誘うものも少なくは無かった。 体操服や制服、志貴の学校へ行く時の姿などは凛々しく映る。 中でメイド服を着た少女が出てくる一冊は、どきどきするようないたたまれなさと恥ずかしさ。 ただ、羞恥ご奉仕云々とタイトル。 自ら裾を捲り上げたり、放尿。  ただ、唇を合わせる事が口づけであると翡翠はこれまで思っていたが、それは初歩の初歩だと学んだ。  これで終わりではなく、始まりでしかない。      志貴さまの口の唾液を啜ったり、代わりに唾液を注いでのんでいただいたりしたけど。  驚くほどの快感だった。  もちろん、ここに来るまでにきちんと口を注ぎ、万が一にも志貴に不快な思いをさせないように気を配るのは忘れない。  終わった後も、志貴の口を拭い、口づけの跡を消しておく。  証拠隠滅という言葉は翡翠の中には存在しない。 「いよいよ、 「どうすれば、志貴さまは起きてくださるのだろう」  これでは足りないのか。  もっと熱意ある口づけが必要なのか。 「そう言えば……」  志貴の秘蔵本を思い出す。  そろそろと自らのスカートの裾を持ち上げた。  じっと、白いショーツを見つめる。  ここ。  花園、貝、いろいろと表現されていて、なかには翡翠の理解の範疇を超えていたものもあった。  なんでこの辺りの描写にミミズだのカズノコだのが出てくるのか。  殿方の眼にはそんなに気味悪く映るのだろうか。  お風呂でしげしげと眺めたりもした。  その中で、何となく理解できた別称。  唇。  ここと、志貴さまの唇を合わせたら……。  想像するだけで、体がどこかおかしくなる。  膝が力を失って崩れそう。 「ひゃうッッ、ああ」  異様な感触。  電撃を受けたような衝撃。  静に対して動の立場であった翡翠が受けた、動。  柔らかいものが、敏感な秘められた処を、擦り上げたのだった。  ぺたんと腰が落ちる。  あまりの驚き。  そして激しすぎる快感。  腰から脚にかけての虚脱感。  志貴がもぞもぞと動く。 「は、はうう」  まだ敏感な性器に志貴の顔が触れる。  残り火と言うにはまだまだ燃え盛っている体が、また熱を発しそうになる。  志貴が呼吸する度にその空気の流れが微細な刺激にもなっている。  その呼気に何やら声が混じっているのを悟って、翡翠はぎょっとして腰を浮かせた。  しばしどきどきと志貴の顔を窺う。  目は閉じている。  しかし頬には少し赤みが差しているように思えた。  べたべたに濡れた額や頬。  自分が擦りつけ、そして激しく噴きだしたものの生々しさに翡翠は赤面した。 「志貴さま……?」  恐る恐る声に出す。  しかし、声は返らない。  寝たふりかどうかは翡翠の目には明らか。  呼吸も穏やかな寝息になっている。  志貴さまの口や鼻を塞いで、お顔に腰を下ろして、それで苦しかったんだ。  翡翠は志貴が息苦しさに呻き声を発していたのだと思い当たり、赤くしていた顔を蒼くする。 「申し訳ありません、志貴さま」  謝罪の言葉を聞いていないであろう主人に、それでも翡翠は心をこめて頭を下げた。 「そうだ、お顔を拭かないと」  普段のくちづけの後とは比べもにならない濡れ広がり、塗れる液の粘度。  翡翠は必死になり、しかし志貴の眠りを覚まさぬように、あるいは目覚めを怖れるように、拭き続けた。    ちなみに、さらに何日か後、志貴の文献での独学を進めた結果、男性器の先端部分に鈴口と言うものがあるのを知り、メイドさんの朝のご奉仕という行為との結びつきに電撃を受けたような、衝撃を受けるのであるが、それはまた別なお話。