喩え夢でも

阿羅本 景


茶道室の窓から、夕陽が長く傾いて射す。  障子の間の僅かな隙間から、カクテル光線のように茜色の光が走り、畳に映る。そして、 その光と影は畳の上に模様を作るが、規則正しい畳の目に写し出されたそれは急に盛り上 がり、不定型な線を描く。  畳の上に、横たわっている男がいた。正座が崩れたような姿勢で、腕を伸ばさずにばっ たりと横に倒れている。眼鏡が少し離れた所に転がり、夕日の飴の光の中を写して光る。  短髪の彼は目を閉じ、まるで彫像が傾いだように動かない。横向きになって寝ているの に顎がだらしなく開くこともなく、涎を垂らしている訳でもない。ただ、傾き眠っている。  耳を傾ければ彼の立てる微かな寝息が聞こえたことだろう。だが、いびきもなく静かに 傾いで眠る姿は、異様と言えば異様だった。  彼の名は、遠野志貴という。この高校の二年生であり、校内の有名人というわけでもな かったが、全くの無名でもないと言う不思議な少年。ただ、その名前を覚えるモノには忘 れがたい印象を与えることはあったが――  彼はこの、茶道部室の畳の上で眠っている。  手足を伸ばして眠っているのではないので、ひどく窮屈な感じがする。正座の足が横向 きに崩れてはいるが、もしや彼がこうやって倒れていなければ正座したまま熟睡している のではないのか?と見る者は思うだろう。  そう、この姿を見る者がいれば……  茶道部室の引き戸の鍵がカチャカチャと鳴る。  錠が回る音がかちゃり、とするが扉は開かない。コツンと扉が動き、そうしてからまた カチャカチャと鍵が逆向きに鳴る。 「あれ、鍵閉め忘れましたかね……私としたことが」  今度こそは鍵が開けられ、カラカラと引き戸が開かれる。両手で扉を押して現れたのは、 黒蒼の髪の少女であった。  眼鏡の下に聡明な瞳を宿らせる少女は、この学校の制服に身を包んでいた。戸口には光 が射さずに薄闇がわだかまるが、開かれた扉から射す光で照らされる。  玄関に、綺麗に整った靴が一足。  少女はそれをまず見ると、驚いて目線を茶道室の中に走らせる。  そこには、畳の上に正座のまま横に崩れて動かない志貴の姿。  はっ、と彼女は息を飲む。顔色に緊張が走り、やおら走り出すか――と思われた彼女だ ったが、その場で足を止めた。  黄昏時の沈黙。校舎の中から響くのは微かな下校後の、気配の残滓。  少女――シエルは気配をつい殺して、畳の上の志貴を観察する。入り口側に倒れ込む様 な形で、横向きの頭が見える。眼鏡は外れて畳の上に転がり、プリズムのように射す夕陽 を反射させて光の模様を作っていた。 「遠野くん……?」  シエルは押し殺した声で呼びかけるが、返事はない。  こんな不安定な恰好で寝転がり、まるで気配も正体もない横たわり方をしている志貴を 咄嗟に疑ってしまうシエル。だが、彼女の聡い耳は志貴の立てる、微かだが規則正しい寝 息を耳にする。  ふぅ、と肩から緊張を抜くと、シエルは困ったように笑って呟く。 「やれやれ、先客は遠野くんでしたか……まぁ、他にお客さんは来るはず無いんですけどね」  シエルは後ろ手に扉を閉めると、デッキシューズを脱いで志貴の靴の横に揃えて置く。 まるで夫婦のように並んだ二足の靴を見ると、微かにシエルの口元が微笑んだ。  畳の上に登ると、シエルは膝で進んで志貴の様子を確認する。首を巡らせてみる志貴の 身体は学生服で、どこも異常はない。貧血で倒れる癖のある志貴のことだからもしや、と いうシエルの懸念もあったが、寝顔は穏やかそうであった。  シエルは畳に手を着き、背をかがめて志貴の顔を覗き込んだ。  目を閉ざし、口元まで結んでいる端正な――と言っていい寝顔だった。普段シエルが目 にするどことなく頼りなさそうだったり、不意に厳しく険のある顔になる志貴とは違う、 不思議と背筋の正すような印象のある、厳粛な――寝顔だった。  シエルはそんな志貴の顔を飽かずに見つめていた。  横から覗き込むような恰好だったが、すぐに畳の上に俯せになって、組んだ手の上に顔 を横たえて眺める。顔と体の向きを合わせて、正対する様に。  普段目にすることのない志貴の顔に……シエルはすっと胸の中に広がる暖かさを感じる。  こうやって、自分の恋人の寝顔を飽かずに見つめることが出来る日が来るとは――遠い 昔に夢を見て、そして悪夢のような宿命に翻弄されて諦めたはずだった。  人並みの幸せ。そんなちっぽけなモノすらも味わうことは出来ないと思っていた……  シエルが首を傾けると、肘に何かが触る。  手を伸ばしてゆっくりとそれを手に取ると……それは眼鏡だった。平凡な黒染めのフレ ームだが、そのレンズに信じられないほど深い来歴を秘めた眼鏡。片手でそれを手にしな がら、志貴の顔を見つめるシエル。  眼鏡をしていない志貴の顔を、シエルはあまり目にすることはない。  シエルが抱かれるときもお互い眼鏡をつけたままであったし、夜の見回りも自分は眼鏡 を外していても志貴は着けたままだった。もっともこの眼鏡を外すときは志貴の力が解放 される刻を意味しているのだが。  不思議と端正な志貴の寝顔。  シエルは眼鏡を片手に取り、畳に寝ころんで志貴を見つめていたがやがてゆっくりと体 を起こす。そして正座をすると両手で眼鏡を手に受けてじっと佇む。  横に崩れて眠る志貴と、端座するシエル。  夕日が二人の姿を朱に染め上げ、朱の中に夜の影と闇の黒を本の一滴垂らしたの様な、 微かな寒さを感じる光。  シエルは膝で志貴の頭ににじり寄りながら、相好を崩す。 「もう……遠野くんは仕方ありませんね」  怒っていると言うよりも、母親が子供をあやすかのような優しい声。  こんな声がまだ出せた……と、シエル自身も不思議に思うほどの声。  シエルは志貴の頭の後ろの回り込むと、両手を志貴の頭に掛ける。  そして、そのまま少しずつ、慎重に持ち上げながら、身体を志貴に近づける。  やがてシエルは志貴の浮いた頭の下に膝を入れる。そしてゆっくりと志貴の頭を下げて いく。  細心の注意を払ってシエルは志貴を起こさないようにしていた。  シエルの緊張をよそに、志貴は深い眠りについている。鼻をつままれるのならまだしも、 頭を触られたぐらいでは気が付かないほどの…… 「ふふふっ」  自分の膝の上に志貴の頭を横たえると、シエルは満足そうに微笑んだ。  志貴は眠ったまま、シエルに膝枕をされていた。柔らかいシエルの太股の上に頭を預け て、志貴は微睡み続ける。  暖かい志貴の顔を脚に感じながら、シエルは嬉しそうで、それでいて泣きそうな顔で志 貴の顔を見下ろしていた。 「遠野くん……」  シエルは指を志貴の髪に絡めて囁く。  志貴が聞いていることを期待しているのではなく、自分に向かって語りかける言葉。 「……遠野くんは、幸せですか?」  ――私は、幸せなんだろうか?  幸せだった時代はある。幸せだった町はある。幸せだった記憶もある。  だが、みんなそれはうち砕かれてしまった。いや、うち砕いたのは自分のこの手だ。  無垢の青春は血潮と呪詛の中に沈んだ。故郷の町は死の影で覆い尽くされた。幸福な人 々の記憶は陵辱され尽くした。  あまりにも脆すぎた、シアワセノカタチ。  玻璃細工のように、砂の城のように、夢に浮かぶ泡沫のように。  ――そして私は一人殺戮の荒野にいる。  ロアという名の呪いと影  埋葬機関という名の正義と偽り  砕ける心は自分には許されなかった。この身を砕かれ御神の身許に赴くことも許されな かった。ただ己の身に科せられた赤い血文字を血で洗い流そうとしていた。  鏡の中の虚ろな瞳。年老いることのない忌まわしい身体。  どれほど一人で戦い続ければいいのか、わからない希望を失い掛けた日々。  そして――シエルは志貴に出会った。  シエルは指に志貴の短い髪を絡めながら、うつむき口をきつく結ぶ。  ――今こうやって幸せな時間を送れるのは、過ちなのかも知れない。きっと私の手から この幸せは奪い取られる。踏みにじられ叩きつけられ、目の前で粉々にされて脆いシアワ セを思い知らされるのかも知れない。  シエルは血が滲むほど強く、唇をかみしめる。  志貴の髪を触る手が震える。頭を撫でていた手をそっと志貴に押し当て、その温もりが 奪い去られないようにするかのように――  夕日はやがて宵闇に替わる。  翳りを帯びた夕焼けは、やがて茜の残滓を残した闇に替わる。  茶道室を支配するのは夕の赤から夜の黒に転じていても、シエルは身動きせず志貴を膝 枕し続けた。  何度かチャイムが鳴ったような気もしたが、シエルは気に掛けてもいなかった。  電気をつけることもなく、畳の目も見えなくなった暗い部屋の中。  ただ、薄闇の中で志貴の顔を見つめ、そして囁く。 「遠野くんは……」  ――このシアワセは 「……渡しません」  ――たとえこの身が砕かれようとも、離すつもりはない。  そうだ、シアワセになるために人は生まれてきたのだから。手放してまた意味のない生 の荒野を彷徨うのならば、いっそ滅びが与えられる方が望むところであった。  強いシエルの言葉は、志貴の意識に届いたのかどうか。  身じろぎ一つしなかった志貴の身体であったが、微かに頭が動く。 「――?」  シエルが志貴の顔を見つめていると、ぴくりと瞼が動いた。  睫毛が震えたかと思うと、闇の中で青く輝く瞳が緩やかに開かれる。そしてその瞳は自 然とシエルの顔を見つめる。  シエルも、笑顔をつくって志貴の頭を撫でた。  さわさわと志貴の頭をシエルの手が撫でると、気持ちよさそうに目を薄めて、志貴は唇 を開いた。 「先輩……?」 「お寝坊さんですね、遠野くんは。私が来たときにはもう眠ってましたよ……だから、こ うやって膝枕することにしたんです。分かりましたか?」 「う、うん、先輩……ど、どれくらい経ったのかな?」  眠り込んでいた志貴の不安げな問いを耳にすると、シエルは左手を持ち上げて時計を見 る。闇の中でもシエルの目は文字盤の上の針を読みとっていた。  七時半ですね、という答えに志貴はあわてて跳ね起きようとした。 「え?そんなに?御免先輩!」 「まぁまぁ遠野くん、落ち着いて落ち着いて」  シエルはこしゅこしゅと志貴の頭を撫でながら、自分の太股の上に押しつけた。  志貴はシエルの手によってもう一度膝枕させられると、驚きを隠せない瞳でシエルを見 つめる。なぜ先輩は、という疑問を宿した眼。    シエルはそっとポケットの中から志貴の眼鏡を取り出すと、両手で優しく志貴に掛ける。 「あ、先輩……」 「慌てなくても良いですし、謝らなくても良いですよ。私は遠野くんに膝枕されたくて膝 枕していたんですから。風変わりな先輩の趣味だと思って諦めて下さい」 「……ありがとう……先輩」  ただ撫でられ、諭されるままに頭をシエルの膝の上に休める志貴。  とまどいをその顔には隠せなかったが、まるで母親のように膝枕をし、志貴の頭を撫で 続けるシエルの手に動揺を溶かされて、落ち着いていく。  夕日の最後の一片の残滓は西の地平線に落ち、銀の星と月、鴉羽の闇の支配する空の下。 「……遠野くん、良い夢見られましたか?」  そっと首を傾げてシエルは尋ねる。  志貴はしばらく口を開かずにいたが、ちらりとシエルの顔を見てから答える。 「あんまり夢見ない体質で……目が覚めたらすぐ先輩が居て」 「そうですか……起こしてしまったらごめんなさい」 「いや……いつも見るはずのない、夢を見るのかと思っていた」  志貴が不思議な言葉を口にすると、シエルの手が止まる。  志貴は恥ずかしそうな顔ではにかんで話を続ける。  穏やかな――笑顔だった。 「先輩にずっと膝枕して貰えるだなんて……まるで夢を見続けて居るみたいで」 「私も……夢を見続けたくて遠野くんに膝枕をしていたのかも知れませんね」  脆いシワセノカタチ。漂う幸福の夢。  それが壊れるのが怖くて、息を殺して恋人の身体に身を触れていたのかも知れない。そ う、一時でも離れるとこの夢が覚め、またあの血と埃の荒野を彷徨う現実が再び―― 「先輩……」  志貴が見上げながら尋ねる。   「泣いてるの?」  ……いつの間に、自分は涙をこぼしていたのだろう。  シエルはそういわれて、初めて自分の頬を涙が伝っているのを感じた。涙は止めどもな く瞼から溢れ、頬をこぼれ落ちて志貴の顔に注ぐ。  シエルは手の甲で頬を、目頭を擦ろうとする。だが泣いているつもりもないのに、涙が 湧き続ける。  志貴は起きあがると、声もなくぽろぽろと涙をこぼし続けるシエルの身体を――― 「あっ……遠野くん……」  抱いた。  腕が硬くきついほどシエルの身体に巻き付く。   腕を垂らして身体を抱き寄せられ、志貴の肩に顔を押しつけられたシエルはただ……お えつを漏らすこともなく静かに泣き続けた。  志貴の腕が背中から伸び、シエルの頭を撫でる。  志貴の肩をシエルは濡らし、泣いていた。手を垂れて志貴の身体に頭を預け、そのまま…… どれほどの涙を流したことだろう。  志貴の手はそっと、蒼黒の髪を撫で続けた。  二人とも言葉無く抱き合い、茶道室の中には二人だけが身体を寄せ合っていた。  深沈とした夜の校舎の沈黙の中、やがて志貴が口を開いた。 「先輩……どうして、泣いてたの?」 「……わかりません。ただ、志貴くんと一緒にいられるのが夢じゃないのかと思うと…… 私も涙もろくなりましたね。きっとそれは」  シエルは眼を閉じ、その頭を志貴に預ける。 「……きっとそれは、幸せすぎて弱くなったんでしょう」 「弱く……なった?」 「そうです。昔は希望も幸せもなかったから、強くならざるを得なかった」  血と埃の荒野と、死ねぬ身体と狂えぬ心。  それならば強く己をして耐え抜くしかない。いかほどの苦難の旅路が待ちかまえている のかを知らずに――  志貴はぽん、とシエルのうなじに手をおくと、一際ぎゅっと力を込める。  息苦しいぐらいに抱きしめられても、シエルは声も上げなかった。  志貴はその言葉と、自分も知り得ないシエルの深い過去の闇を想う。弱くなることは哀 しいことかもしれない。だがそれは――決して悪いことではない。  志貴はシエルの耳元に低い声で語り始める。 「……弱くなったって、涙もろくなったって、先輩は……俺の好きな先輩だ」 「遠野くん……でもそれは」 「俺は、俺の好きな先輩に幸せになって欲しい。幸せになって一緒にいたい。喩えこれが 夢でも構わない。だからこうやって……」  軋むほどに志貴の腕に力が入る。  シエルはあ、と声を上げる。それは志貴の腕の力故ではなく、志貴の言葉の力故に。  闇の中で囁かれる二人の言葉。 「……愛している、先輩。いや、シエル」 「遠野くん……志貴……私も愛しています。だから……」  二人は互いの名前を呼びながら、そのまま――                                 《Fin》   
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