「流るる涙はレテの水」

作:喰人(もとはる)



  ホテルの名は ergriffen 粉雪舞う街角 ホテルの名は ergriffen 探しては往けぬ場所 ホテルの名は ergriffen 二度とは還れぬ遠き刻 ホテルの名は ergriffen 胡蝶舞うゆめのかよいじ ホテルの名は ergriffen 優しく誘うファム・ファタル ホテルの名は ergriffen 理想の少女に逢える宿 ホテルの名は ergriffen 瓦斯燈揺らぐ忘れえぬ炎 ホテルの名は ergriffen 天獄繋ぐ昇降機 ホテルの名は ergriffen 面影集う鏡の間 『ゆめゆめ忘るることなかれ   忘れじの夢より覚めるを望まずば         少女の涙は飲むなかれ』 少女の名はレテ 昨日の名はムネモシュネ 少女の名はレテ 明日の名はアムネジア 少女の名はレテ 今日の名はレテ レテ 背負う昨日を捨てた者 レテ つなぐ明日をやめた者 レテ 繰り返す常しえの今日 眠りの内に死に変わり  朝に覚めるは見知らぬ少女 逝きて孵りし物語  久遠に無垢なる永劫の処女 かりそめの永遠の代償は記憶  喜びも悲しみも一昼夜の夢 宝石でなく 愛でなく 貴方はなにも呉れなくていい  少女はねだる ひとつだけ わたしを忘れないでいて  犯さなかったその罪を赦してあげる  有り得なかったその約束を叶えてあげる  思い出せないその傷を癒してあげる                   だから 生き写しに見せてあげる  大切過ぎて触れることすらできなかったあの娘を  身近過ぎて気づくことさえなかったあの娘を  臆病過ぎて傷つけることしかしなかったあの娘を                        だから  思い出に触らないで   君は君 僕のレテ その眼差し その指先 恋を囁くその声音  そして貴方は次に言う 次の言葉を塞ぐキス それさえもかつてあったこと    既視感(デジャ=ヴュ)に沈まないで   僕は僕 君はレテ   なら 思い出になっていい?  貴方のいちばんの思い出に   消えることない思い出に  貴方に呪いと痕(きず)遺す   それだけが ただ わたしの願い 素敵なお話読んだから 今日はとっても気分がいいの  誰よりも愛された少女のお話  たちまちに過ぎる恋のお話  別離ゆえ永遠となるさよならの話 そんな珠玉の物語たち  少女趣味だと笑わないでね そんな誰かの物語たち  擦り切れたその本をめくり そっと差し出す 今日が素敵に終わったら 物語にしてここに記すの  革装丁の日記帳 蔓草踊る飾り文字 「いまはもういないわたしへ」 儚いなどと言わないで  蜻蛉には 蜻蛉たちの時がある ひたぶるに愛を語る一日 たゆとう肢体はレテの河  月影撥ねる水妖(オンディーヌ) 琥珀の瞳 玻璃の窓 星を宿した深き井戸  白の褥に藍の髪 銀の湖面に蒼の波 水面(みなも)に揺れる朧月  月の顔(かんばせ)掬いあげ 我が手に零(こぼ)る蒼の瀧  吐息に煙る粒真珠   双丘に起つ朱珊瑚  白磁を滑る珠水晶   貝に秘されし紅玉髄 小夜啼鳥の初音聴き  分け入る渓(たに)や桃源の   浮きては沈むレテの洞 浮橋めぐり花筏 白魚弄う笹葉舟   玉鳴り迸(はし)る岩清水   魂消ゆ歌のローレライ 長春の泉 弓なる瀬  千曲にうねり 狂狂(くるくる)と   たちまち溺るレテの渦 優しく深きレテの淵 哀しみは喪うことの悼みでなくて  喪ったことを忘れることと   忘れたことさえ忘れゆくこと 不思議な瞳のうながしに  問わず語りの 遠い過去   甦る 忘れ果てたる想いたち 春の陽に 花嵐過ぐ そのこわきまでのうつくしさ   虫の音に やがてかなしき 夏の宵 秋の午後 少年に兆す寂寥は 去りし時短きほどに胸せまり  伸ばす手が 星に届いた 冬の夜 想い出は みな美しく  微笑みて聴く 少女の眼 溜め息ひとつ 翳る顔  けれど わたしは なにもない 命が尽きても人は生く  憶い出す人の尽きたとき   はじめて人は消え果てる 繰り返す千の別れがさだめなら  千と一度(ひとたび)出会えばいいわ わたしの出会いは 一度きり  わたしの別れは 一度きり   わたしの涙も 一度きり 貴方はわたしの涙を飲むの?  忘却のその恩寵を分かち合い   いまこの夜も忘れるの? 眠りたくないのと少女はぐずる  眠るのは怖い わたしが消えてしまうわ おやすみは別れの言葉  もう二度と貴方と会えない 子守唄を歌ってと少女はねだる  貴方の邦の唄を聞かせて   せめて安らかに逝けるから 照れながら僕は歌う  母が歌ってくれた唄   僕の故郷の遠い唄 ほんとうに下手なのね 目を閉じて少女は笑う  でもやめないで 最後まで貴方を聞かせて 横顔見つめ 掌を握り 歌い続ける僕の唄 やがて静かな彼女の寝息  少女が小さく微かに呟く ごめんなさい  わたしを赦して   いいえ 決して赦さないで    赦してくれなくていい     だから わたしを 忘れ な  い   で    と 瞑った目から 涙ひと筋  最後の場面を壊せずに   すくみて眺むレテの河    音無く蒼く歪む視野     そうして僕も眠りへ堕ちた 貴方はダァレと 少女は訊いた  一夜の客と僕は云う そう さようなら お帰りはあちら  Good morning! Good bye!   レテという名の少女は逝った ホテルの名は ergriffen 一期一会の夢語り ホテルの名は ergriffen 慰撫の林檎と誰か呼ぶ ホテルの名は ergriffen 夜なお昏き迷い路 二度と恋などできぬと知った  鮮やかに焼きつき胸を去らぬのは ひたすらに忘るるを望む憶い出  しだいにせつなき思慕の熱 こころに映るはレテの貌 幾夜あの宿探しても 二度とは着かぬ雪の路地  堂堂巡りの夜のなか さまよい果てる影の街 探しあぐねてたどり着く 名前も知らぬ裏酒場  レテを尋ねるその言に 初老の男は問い返す   琥珀の瞳 藍の髪   あの日と変わらぬ貌のまま   少女は宿に居ましたか   彼女の涙を口にせず 吾も惑いし永の夜   いくら年月重ねても 吾が胸去らぬ琥珀の眼   いくつ春秋連ねても 吾が頬憶ゆ藍の髪   吾の求めしその少女 吾がおもひでのなかに居り   貴殿の探すその少女 ただおもいでのなかに在り   現実(うつつ)に住まうひとならず   透き通る追憶にのみ棲む少女   忘却は果たして呪詛か祝福か   閉じた輪を生きるを選んだかの乙女   あれは私の姉ですと 去りがてに告ぐ影法師 少女の涙はレテの水  甘き天露を飲んだなら 忘れることができたのか 光に融ける霜のよに 朝にたちまち消えたのか  訳すら識らぬそら涙 静かに頬を濡らしおり 意味すら識れぬ愛惜が かそかに胸を覆いつく  目覚めれば 思い出だせぬ夢のよに 怪訝に思う間も刹那 まどろみ醒めれば消えるだけ  こころに開いた見えぬ孔 ひゆりと夕風鳴らすだけ 虚ろに胸のヴァイオリン ゆよんと朔夜に軋るだけ 思い出す人の絶えたとき  少女は音無く消えるのか テーブルの上のあの本を  風だけがただめくるのか 涙雨 集めて疾し レテの河  瞳の色に溺るよに スコッチをさらにもう一杯 喉灼き降(くだ)るレテの水  美(うま)しく苦きレテの蜜   優しく昏きレテの河 『夢なりし 夢路の胡蝶のゆめのゆめ   夢と知りせば覚めざらましを』 バーの向かいはホテルの燈り  ネオンの文字は ergriffen   今宵も訪なう 誰かがひとり (endless dream)