男の甲斐性

阿羅本 景


「イチゴさん、それは嘘でしょう」  志貴が口にした言葉はそんな言葉だった。首を振り返って、肩越しに後ろに立つポニー テールの乾一子を見上げている。洗い晒しのシャツにジーンズというラフな恰好の一子は、 マルボロを銜えたままで表情を変えない。  ショルダーバックがどすり、と床に落ちる。中に書類などが入っている様で、妙に重そ うなバッグであった。  志貴の傍らの有彦は、唇を曲げてうへぇ、と呟く。 「まー遠野、落ち着け落ち着け」 「だって有彦、お前も信じられるか?あのじじい……じゃなかった、時南宗玄が名医だな んて信じられるかよ」 「いや、そう言われても俺もそこまではよく知らないけどな……」  息込んで主張する志貴に、困ったように応じる有彦であった。志貴はようやくあぐらを 掻いていた膝を崩して一子に向き直ると、呆れたように天井を仰ぐ。  無表情にくわえた煙草の先を上下していた一子は、しばらく目線を志貴の上に据えて無 言で何かを考えているようだった。  やがて、すとんと志貴の前に腰を下ろす。  向かい合い恰好になった志貴はもぞもぞと胡座から正座に変わり、一子にゼスチュアを 交えながら説得を行うかとしようだったが、すぐに諦めたように膝をぽんと叩く。 「んぁ、姉貴、まだ昼間だけどビール飲む?」 「買ってあるのか、済まないな」 「ほんじゃまぁ……」  入れ違いに有彦が立ち上がってキッチンに向かう。志貴は有彦がなんとなく座を外した がっている様な気配を感じて止めなかった。付き合いが長いと以心伝心でお互いが何を考 えているのかがわかるものであった。志貴と有彦の関係はそうであり、その点では遠野家 の面々より一段と深い関係がある。  もっともそれはこの目の前の一子にしても同じ事だったのだが。  志貴は掌を合わせて微かに呻くと、声を潜めて一子に尋ねる。 「でイチゴさん、その記事のタイトルは……」 「『民間療法・あなたの町の知られざる名医50選』だ」 「知られざる、と言うのは正しいかも知れませんけどそれは知らなくて良い、ですよ。で 名医ってーのはあの爺さん相手には失礼ですよ、そんな事言うとあの世のヒポクラテスに カドゥケウスの杖で殴られます」  妙に蘊蓄めいた愚痴を口にする志貴だったが、そこはそれ、海千山千で酸いも甘いも噛 み分けた一子を揺り動かすことができるものではなかった。一子は肩をいからせて妙な憤 りに耽る志貴を飽かず見つめ、やがて胸ポケットの中からジッポーを取りだし、マルボロ に火を付けて一吸いするまで黙っていた。  紫煙をふぅ、と一条高く吹き上げてから一子は淡々と喋り出す。 「今回の班の仕事がこれでな、ある意味楽勝かと思った。リストに目を通すどこかに見覚 えがある医師の名前が一人いてな、それが……」  すぅ、と一子は煙草を吸う。  灰を纏いながら紅く燃える煙草の先を見つめて志貴ははぁ、と漏らす。 「時南宗玄医師だった。遠野のかかりつけの医者もそんな名前だと思ってな」 「ありふれた名前じゃないですからね、確かに」 「で、お前に取材の一環として尋ねたわけだ、遠野」  話を無理矢理一子のペースに持って行かれて、はぁ、と気の抜けた答えを返すばかりの 志貴。 口論をしても勝てる相手ではないことは百も承知している志貴だったが、一子相 手に鼻白む中でも宗玄のことを「名医」と呼ばれるのだけは承伏しかねる。  志貴はいじましそうに顎を引いて上目使いで一子を見つめる。  一子はそんな志貴に構った様子ではなく、手を伸ばして灰皿を引き寄せた。 「……違うのか?遠野?」 「イチゴさん、あれが名医だったら俺は泣きます、なんで名医の下の患者がこんなに調子 悪いまま六年も七年も暮らしているんですか」  ――なんだって自分の病気を引き合いに出さなきゃいけないの?と情けなさに涙すら浮 かべたくなる志貴だった。志貴の見守る中、一子はぽんぽんと煙草の灰を落とし、また口 にマルボロのフィルターを銜え直す。  志貴は喋り掛けた都合、収まりがつくまで口を動かし続ける。  義憤か私憤かわからない感情に駆り立てられたままに…… 「宗玄の爺さんは俺のことをまるでモルモットか何かのように、ありとあらゆる針灸按摩 漢方和方、果てまた西洋医学の新薬や新治療の対象に……」 「……それだから遠野が今までなんとか過ごせているという可能性は考えたことはないの か?」    一子が目線を軽く志貴に向けて放った一言に、う、と言い淀む。  そりゃぁ、そう考えられないこともないですけども、と口の中でぼそぼそと呟く志貴に 一子はマルボロを揉み消しながら追い打ちする。 「名将の下には弱兵無しだが、名医の下には重病人無しというわけにはいかないからな、 遠野。むしろ名医だったからお前が掛かっていたかも知れない」 「それは仮定の論議ですよ、一子さん……」 「まぁ、お前の負けだ負け、姉貴に反論するなど十年早いわ」  歯切れ悪そうに志貴はぶつぶつ呟いていると、頃合いを見計らったかのように缶ビール を抱えて有彦が居間の暖簾を潜ってやってくる。  志貴がむぅ、と口をへの字に曲げて恨めしそうに有彦を見つめていたが、カラカラとお かしそうに笑う赤毛の青年には堪えた様子がない。  トントントン、と三つ缶ビールをテーブルの上に並べ、有彦も腰を下ろす。  志貴はその三つの缶ビールを見つめると、有彦に尋ねる。 「……なんで三つあるんだ?有彦」 「それは決まっている。一つは姉貴で一つは俺で」  有彦は缶ビールを一子に渡す。一子はプルトップを引いて顔を覗かせる泡を啜る。 「もう一つはお前のだ、遠野」 「え?そんな昼間から酒盛りか……」 「嫌か?なら私が飲むが」  そういって手を伸ばし掛けた一子の前で、志貴は缶を奪い取る。 「もちろん頂きます、イチゴさん」 「くわーっ、逆らって見せたかと思うと姉貴相手に一転して妥協の態度を見せるとは、お 前も可愛くないねぇ遠野」  有彦もビールを開いて、汗を掻きつつある冷たい缶に唇を寄せる。  志貴も手に缶を抱えたまま、一子に軽く頭を下げてしていたが、それに目礼で返す一子。 「……何かつまみが欲しいな」 「じゃぁ、冷蔵庫と台所貸して下さい、何か作りますよ」 「おいおい遠野、お前が遠慮してそこまでしなくてもよかないか」  立ち上がる志貴に不平の色を見せる有彦だったが、志貴はまだ缶に口を付けながらそそ くさと立ち上がる。 「お前の家にお邪魔して、一杯奢って貰って、お返しに料理くらいしなくちゃ一宿一飯の 恩義は返せないだろ。まぁ任せて置きなさい有彦クン、琥珀さん伝授の新レシピをお目に 掛けてくれよう」 「一宿一飯って任侠稼業じゃないんだからなぁ、いったいどこで遠野にそんなボキャつけ てんだか」  ふっふっふ、と如何にも楽しげに笑う志貴に、一子はじーっと目線を注ぐ。  その目線に気が付いて志貴が首を巡らせると―― 「?なんですか?一子さん」 「……お前いいムコになるな、遠野」  ぶはぁっ!と志貴がビールを噴くのを有彦は呆れた眼で見つめていた――             §            § 「で、やっぱり取材するんですかイチゴさん」  閑静な住宅街の中を先に歩く志貴は、まだ疑いの消しきれない態度のままだった。制服 で片手に鞄を提げて、まだ夕日が落ちる前の明るい空の下で歩いている。  一子はその後ろでショルダーバックを掛けて歩いていた。背筋は伸びているが、なんと なく疲れたかような感じがする歩き方であった。もっともラフな恰好ゆえにそう見えるの かも知れないが……  一子は志貴の顔をちらりと一瞥すると、淡々と答える。 「仕事だからな」  はぁ、と志貴がその答えに仕方なさそうに溜息をつく。  にわかに酒盛りとなった乾家の食卓でも、志貴は宗玄薮医者説を取り下げなかった。一 子は落ち着いた態度であったけども、結局は志貴が時南診療所への案内を買って出ること になったのであった。  半分アルコールに霞んだ頭であったが、その時は何とかして一子に宗玄の医者としての ダメさを証明したい一心で志貴は言い出したように記憶していた。もっともその後に遠野 家に帰るまでにアルコールを抜くのが一苦労であり、記憶はそっちの方に多分に傾いてい たのだが…… 「アポはいれたのか?遠野」 「大丈夫だと思いますよ、いつも爺さんはヒマしてますから」  志貴はやれやれ、と鞄を肩に掛けながらそう投げやりに答える。  一子は数歩離れて志貴の後を追っていたが、小声でぶつぶつ不平を呟く志貴の事を観察 していた。一子は知っていた、もともと志貴というのは自分以上に人間に淡泊というか無 興味であり、むしろこの時南医師のように拘りを持つのが珍しいことなのだと。  仕事の事もあったが、普段なら「ああ、そうですか」で済ませてしまう志貴が拘る人物 というモノに興味を引かれていると言うことを。だが、それをおくびにも出さない一子で あった。  ただ、志貴には短い言葉で―― 「珍しいな。遠野がそんなに人に拘るのは」 「そうですかね?あの爺さんにはいろいろ恨み辛みがありますから……忘れたくても忘れ られませんよ、イチゴさん」  志貴はそんな一子の興味には全く気が付いていないようだった。ただ、それ以上の言葉 で自分の内心を開陳してみせるつもりもない一子は、そうか、と答えて黙り込む。  二人はしばし無言で歩いた。住宅街の生け垣を越え、やがて板塀の続く閑静な一角に出 る。志貴は知り尽くした様子で角を曲がり、やがて木造の一軒家の前にたどり着く。 「ここですよイチゴさん。さて――」 「…………」  玄関に立った志貴が無造作に磨りガラスの入った引き戸に手を掛ける。  一子が見つめる玄関には、時南診療所・医師 時南宗玄という墨書の看板が一枚填って いた。それまでの道を観察していた一子には、普通電信柱に多くある医院の看板がないこ とに気が付いていた。なるほど、これは世に隠れた医師だと頷くところがある。  いや、志貴が先導していなかったら気が付かなかった可能性もある。  これで志貴が言うのと異なり名医であれば良いのだが、と無言で思う一子の前で扉は開 かれた。 「ちわーっす!遠野が来ましたー」  がらり、と扉を開けて志貴が呼び声を上げる。  玄関に靴箱、板張りの応接室と椅子、それに窓口。和風の診療所の光景が志貴の肩越し に一子の目に入る。 「あら、遠野くん」  そして一子は、白衣を肩に掛けた一人の女性を眼に治めた。  髪を短く揃えた、柔和な顔をした女性。立ち上る優しげな雰囲気があり、如何にも子供 に優しい女医さん、という感触がある。  これは宗玄医師ではないな、と一子が考えていると―― 「あ、朱鷺恵さん」  志貴の声が微かに嬉しそうに弾むのを一子は耳にした。  そう呼ばれた女性――朱鷺恵も、志貴に向かって手を組んで優しく笑い掛けるのを眼に する。同性の身であっても可愛いな、と一子にすら思える柔らかな笑い。 「久しぶりね、志貴くん。診療所に来るのは」 「いや、その……ちょ、ちょっと用があって」  遠野の奴の耳が、柄にもなく紅くなっているな、と冷静に観察する一子であった。  自分に合う時にはまるで男の兄弟や友人に会うように気構えがないのに、この朱鷺恵と いう女性に対する志貴の態度はまさに女性に対してはにかむ少年のようであった。  ――そんなに気になるのか?自分は  その態度の際に何となく違和感を覚える一子は、その職業柄養われた観察力を志貴に向 かって注ぎ始めた。その言動の一つも逃さないように。  志貴と朱鷺恵の語らいに、自分が部外者として阻害されいるかのような感覚を抱いたか らかも知れないが、一子は玄関に立ったまま話しに耳を傾けていた。 「調子悪いの?それは大変……」 「いや、俺の身体はその、宗玄先生には心配して貰わなくていいほどだから。それで」  爺さんとこの女性の前では言わないのは、やはり気後れを感じているだろうか?  そう志貴を観察していた一子は、自分に志貴の手が向いたのを知る。 「えーと、俺の知り合いの姉の、一子さんが宗玄先生の取材に来てて……」 「……どうも、乾一子ともうします」  一子はポケットの中の名刺入れから一枚抜くと、丁重に朱鷺恵に手渡す。  あらあらまぁ、と慌てた手慣れない様子で名刺を受け取るの朱鷺恵は、両手で掲げ持ち ながらその文字を追う。 「あら、雑誌の記者さんでいらっしゃるのね……初めまして」 「えーっと、こっちが宗玄先生の娘さんで、この医院の助手をされている時南朱鷺恵さん」 「朱鷺恵と申します。よろしくお願いいたしますね」  一子はそんな物腰でお辞儀をする朱鷺恵よりも、むしろ志貴の態度に気を向けていた。  朱鷺恵を紹介するのに、奇妙なくらい誇らしげで嬉しそうな志貴の様子。まるで自分の ガールフレンドを紹介されるような……  ――案外、外れていないかもな  そう思う一子は静かに佇んでいると、一子の変わりに志貴が話を繋ぐ。 「で、宗玄先生は奥?」 「あら、ごめんなさい……父さんは井口さんの御祖母様へ急患で出てて、志貴くんたちと 入れ違いになって」 「あちゃぁ……」  済まさそうに謝る朱鷺恵と、意外な不在に思わず顔を抱える志貴。  そんな二人に一子は軽く手を振りながら、二人は悪くないといいたそうな素振りで口を 開く。 「いえ、こちらも突然押し掛けた訳ですから……もしよろしければまた後ほど宗玄先生に はご予定を確かめてから」 「いえいえ、もしよろしければお上がり下さい、父はすぐ戻ると思いますので」 「……すまない、一子さん。まさかこんな事があるとは思わなかったんで」  頭を掻き掻き謝る志貴は、一子をおそるおそる、といった風情で振り返る。  怒っていると思われたかな、と一子は感じていると志貴の声が―― 「どうする?一子さん……また出直そうか」  一子は僅かに考えた。  確かに志貴がアポイントメントを入れなかったのが失策であるかもしれないが、急患と いうのも不可抗力だろう。後日で直すのも一つの手だが、ここで宗玄医師を待つのも一つ の手だと感じ始めている。  それよりも、志貴の素振りが気になっていた。いかにもこの場から去るのを惜しみなが らも、こちらの顔を立てて引き返すことを提案してくる妙に如才のない志貴の様子が。  ならば、選択肢で選ぶべきは…… 「……お邪魔でなければ、お待ちさせていただいてもよろしいですか?」 「はい、喜んで。それではお上がり下さいな」  嬉しそうに歓迎の意を表す朱鷺恵は、そのまま三和土に降りてきて志貴と一子の手を引 かんがばかりだった。よほど一人でここにいるのが退屈なのか、とも感じる一子だったが 顔色を変えずに頭を下げる。 「お邪魔します……」 「……はぁ、朱鷺恵さんも一子さんも、本当に……俺の段取りが悪くて」 「じゃぁ、お茶煎れて来ますから、上がってお掛け下さいね」  ぱたぱたとスリッパの音を響かせ、奥の診察室に身を翻らせる朱鷺恵。  その後ろ姿をぼっーっと見つめていた志貴を一子は後ろから追い越し、靴を脱いで来客 用のスリッパを手に取る。 「……嬉しそうだな、遠野」 「え?い、いや、一体何を仰るんですかイチゴさん〜」  先に上がった一子に、照れ笑いをどうしても隠しきれない志貴が焦ったように答えた。 そしてご冗談を、とばかりに手を振って一子に戯けながら一子の向かいの席に漬く。  一子は先に腰を下ろしてショルダーバックを肩から外し、向かいの志貴を眺める。そし て、左右を見渡して何かを探していた。  その仕草に志貴は、一子が灰皿を探しているのだと分かった。こほんと小さく咳払いし て志貴は…… 「ここは禁煙ですよ、イチゴさん」 「そうか、医院だったな。さて」  一子はゆっくりと背中を壁に預け、足を軽く組んで志貴を見つめる。  にわかにモノを尋ねられる体勢になった志貴は、小首を傾げて一子を見つめ返す。そも そも感情表現が少ない一子は、今こうやっている間にも怒っているのか喜んでいるのかが 分かりにくい。  ――もしかして、無駄足になりかけたことを怒っているのかな?  首をすくめる想いの志貴に降ってきた一子の言葉は、ある意味志貴を安堵させはしたが、 反面頭の上から打ち据えるような衝撃を与えるものだった。  はい?と顔を上げた志貴に一子は…… 「……で、あのお嬢さんは遠野のカノジョなのか」 「!なっなっなっ、何を言うんですか一子さ……ん!」  思わず絶叫し掛けた志貴は、口元を押さえて声を押し殺す。ここは遠野家でも乾家でも ない、時南診療所だ。他に患者はいないとはいえ、大声で叫ぶのは礼儀に反する。  いや、それ以上に今この場にいない朱鷺恵に聞かれてはならない話題だった。志貴は顔 色を失って、慌てて腰を浮かして一子に小声でまくし立てる。 「そんなことないじゃないですか一子さん、と、朱鷺恵さんがカノジョだなんて」 「あのお嬢さんはどっちかというと、ウチの馬鹿が好みのタイプの娘さんだと踏んだのだ が。遠野もなかなかやるな……」  必死の抗議をあっさりと受け流す一子は腕を組んで顎を撫でる。  顎に手が触れた一子は、にやりと口元に笑いが浮かんだ――様な気が志貴にはした。い や、心理的にそう見えるだけであて一子自身は仏帳面な顔のままであったのだが。 「な、何を根拠にイチゴさん」 「見くびるな遠野、お前が鼻垂れ小学生だったころから観察しているこの一子サンにはお 見通しだ……遠野、お前は」  一子はすっと指を上げて、軽く左右に振った。 「あのお嬢さんを見るときに、お前は恋する少年の眼をしていた」 「それは、志貴くんはいつでも恋する少年ですから」 「ひぅ!」  横からやってきた声は、柔らかかったが志貴を仰天させるには十分だった。  仰け反る志貴が見たのは、お盆の上に丸い湯呑みを載せた白衣姿の一子だった。一子は くすくすおかしそうに笑いながら、軽やかにスリッパの音を立ててやってくる。  だが、そんな柔和な朱鷺恵の姿にも、志貴は疚しさを感じてじりじりと後ずさる。  一子は聞かれていたか、と内心唸ったがすぐに聞かれてまずいのは志貴であり、自分は 大して問題にならないことを自覚していた。  ――まぁ、焦っているのは遠野だしな  「はい、粗茶ですが召し上がれ」 「どうも、気を遣って貰って恐縮です。それで朱鷺恵さん?」 「はい?」  一子の鋭鋒が自分ではなく朱鷺恵に向いたことに、志貴は一抹の安堵とそれに比べ物に ならない不安を抱えていた。まずい、外堀から埋められる、という内心の叫びが志貴に策 を講じさせる前に―― 「遠野が恋する少年、というのは……」 「うっ、あっ、あっ、い、イチゴさん!そいつぁ堪忍して下さい!というか朱鷺恵さんも!」  悲痛な志貴の叫びを無視して、一子と朱鷺恵は話を続ける。  あうー、という悶絶を傍目に一子は朱鷺恵の言葉を待った。朱鷺恵はうふふ、と笑いな がら…… 「志貴くんは恋する純情な少年なんです、昔から……ね?あの時も」 「………トキエサン……」  志貴は凍り付いたまま、カクカクとカタカナで喋り始める。  こんなに焦る志貴は珍しいな、と首を傾げる一子の前で志貴はたどたどしく…… 「イ、イチゴサンノマエデソレヲイウノダケハ……」 「あーん、志貴くんはあんなに情熱的に私をあの夜愛してくれたのに、もう私への恋はさ めちゃったのね……お姉さんは哀しいわ」  ビシッ!と凍り付いた志貴から、粉砕されたかのような音が聞こえた――ような気が一 子にはした。  ほぉ、と思わず嫉妬のような、それでいてむらむらと闘志が煽られるような、そんな複 雑な興奮が一子の中に走る。  白衣の袖を掴んで涙を拭う……振りをする朱鷺恵は、そんな志貴の追いつめられた様子 に敢えて相打ちするかのように嘘泣きの声で言葉を続く。 「それに、こんなに年上の恋人の人を連れてきて私の前に見せつけるなんて……父さんに は気に入られたいからなのねっ、ひどいわ遠野くん……」 「……なるほど、そうか、遠野」  禁煙というのを無視して、一子はポケットからマルボロを取りだして唇に乗せる。そう、 この銜え煙草は一子のスタイルであり、火を付けなくてもこうすることで恰好と覚悟がつ く。  一子は目線を天井ら辺に彷徨わせると、ふっと寂しい笑いを作ってみせた。 「遠野、お前はこの私が一人寂しい夜を送っていたのに、この朱鷺恵さんとよろしくやら かしていたわけだな」 「…………」 「哀しいな、遠野……そんなに私は女として魅力がなかったのか。ふっ、そうかも知れな いな遠野……もしかしてお前は私を姉かなにかだと思って、女として見てくれなかったの か」  一子の急転直下の変化には、志貴はだらだらと脂汗を流して震えるしかなかった。  志貴には今までみせたことがない顔を見せる一子になんと答えた物か、見当もつかない。 ご冗談でしょう?とも言いたかったが、口にするとやってくるかも知れないカタストロフ が怖い。  待合室の椅子の上で『苦悩』という彫像のタイトルが付きそうなまでに凍り付いた志貴 は、ゆっくりと朱鷺恵と一子、この二人の年上の女性を眺める。  出来ることなら逃げ出してしまいたかった。この医院の待合室の耐え難い空気に比べれ ば外の空気は如何ばかりに自由に感じるのか。  青空を恋い焦がれる籠の鳥のような想いに浸る志貴だったが、現実は容赦ない。 「で」  寂しい笑いをかみ殺した一子が真顔に戻って尋ねる。  びくん、と背筋を引きつらせた志貴に浴びせかけられたのは―― 「お前が童貞を捨てたのは、このお嬢さん相手か」 「のっ、のっ、ノォォォォォォーーーーーー!」  志貴は印象派の彫像からやおら現代抽象絵画に早変わりする。見事なぐらいムンクの叫 びの顔に成り果てた志貴は、まるで葡萄絞り機でねじり上げられたかのような絶叫を上げ る。  まん丸に見開いた狂気の瞳に一子は冷淡に一瞥をくれて―― 「そうか、NOか、遠野……見下げた奴だ、お前はソープランドかチョンの間かどこかで 童貞をまるで弊履の如く捨ててきたと言うんだな」 「ちっちっちっ、違いますよイチゴさぁぁぁん!」  やおらジッポーを取りだして火を付けかけたイチゴだったが、禁煙なのを思い出して開 いた蓋をカチン、と閉める。そしてその金属の固まりを手にしながら再び口を開く。  志貴はもはや、荒波に奔騰される小舟、嵐に揺られる小枝のような態であった。 「どこが違うんだ?遠野?童貞を捨ててたのはクラスメイトか?」 「そっ、そのっ、それは――!」  志貴が救いを求めて朱鷺恵に思わず目線を走らせてしまった。それが罠の最後の掛け金 をはずすことになるともしらず―― 「あの時の志貴くんはウブだったわ……うふふふ、震えて『朱鷺恵さん、初めてだから俺』 って……震えてて可愛かったわ」 「―――――!」  十字砲火の中にいる歩兵の気持ちが、志貴には一寸だけわかった。  今の志貴の脇腹に、朱鷺恵の言葉が突き刺さる。もちろん目の前の一子はほう、と面白 いんだか面白くないのだかどうにも取りかねる淡泊な態度で頷くばかり。  それが志貴には、内心の怒りを押し殺しているように感じられてならなかった。  意味もなく「殺される」と感じて震える志貴に、さらに側面から言葉の銃撃が…… 「でも私も初体験で、処女を遠野くんに捧げたから……」  もし息を止めて死ねる物ならこのまま死んでしまいたい志貴だった。  目の前の一子の瞳孔はこの言葉にさっきじみたゆらめきを感じる。志貴は惚けたように 佇むばかり。 「遠野よ」 「な、な、なんでしょうイチゴさん」  イチゴは唇に張り付いたマルボロを剥がすと、掌に治める。  そしてぎゅっとその紙巻き煙草を握りしめると――逸らしていた目を志貴に据える。 「初体験だったわけか、お前にとっても、そのお嬢さんにとっても」 「……ぉぉぉぉ」 「そうか、そのお嬢さんの処女はよろこんで受け取っても、私の処女は気に入らなかった ということか。  残念だな、遠野ならいいムコになってくれるかとおもったんだが」 「……………ォォォォ…………ォォォォノォォォ………」  志貴の叫びは人間の最低可聴周波数の下、15Hzぐらいの低く絶望的な響きを帯びていた。  口から発せられる、声とも息ともつかない悲嘆を漏らす志貴。朱鷺恵はぽっと顔を赤ら めて俯き、一子は怒っているのだか怒っていないのだか分かりづらい表情と眼差しで志貴 を捉えてはなさい。  窮地であった。  いっそ幼子のように泣き出して逃げ出すのが唯一の手段かと志貴が思ったその時。 「おう、戻ったぞ朱鷺恵」  がらりと戸を引いて現れた、白髪白髭の老人。  背は伸びて老いの瀬にいながらも矍鑠としておりとしておりと紬の対の外出着に袴姿。 手には古風な薬箱を下げ、まるで時代劇の中の医者のようであった。  玄関に姿を見せた宗玄医師。  だが、彼はこの待合室で修羅場のような、それでいて不可解な雰囲気を漂わせる娘と、 馴染みの患者と、新顔の客を一目見ると髭を扱きながら笑う。  助かったのか、あるいは事情がさらに悪化したのか。  運命の女神のルーレットの上に乗る心地の志貴に、宗玄は呵々大笑しながら―― 「うむ!遠野の小僧!お前にしては見所があるな」 「……はぁ」 「琥珀のお嬢という正妻がありながら、その年で年上の女性に浮気か、よいぞよいぞ、畜 妾と浮気は男の甲斐性!この儂を手本と見習うがよい」  かっかっかっかっか、と高笑いする宗玄。  正妻、の言葉に朱鷺恵の、一子の視線が鋭さを増したような気が志貴にはした。  志貴は感じた。ああ、終わった、と。 「あ、あ、あんぎゃぁぁぁぁぁぁっぁぁーーーーーーー!」                               《おしまい》   
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