作:しにを
もう熱は下がった筈なのに。 足取りがどうにもふらふらとおぼつかない。 部屋を出て食堂へと向かう、それだけの距離だというのに心もとない。 姉さんが戻るの待てばよかったのかな。 ゆっくりゆっくりと廊下を歩く。 普段は意識しないけど、なんて大きいお屋敷なんだろう。 なんとか食堂に辿り付きさらに台所入っただけで一仕事終えた気分になる。 え? そこにいる人影に気づく。 姉さん、もう戻っていたのかな。 ……違う。この人は。 そこにいるのは別におかしくはないけれど。 でも、何をなさっているのだろう。 「うん? あれ、翡翠」 後ろに佇む私に気づいたのか、その人影、志貴さまが振り返る。 ちょっと驚いた顔をして、それからまじまじと私を見つめる。 どきどきとしながらも視線を逸らす事が出来ない。 僅かな間をおいて志貴様は少しだけ厳しい顔をする。 「駄目じゃないか、ちゃんと寝ていないと」 なんだ、私の具合を見ていたんだ。 私の方が志貴さまから注意を受けるというのも、なんだか珍しい。 心配してもらっての言葉だと思うと少し嬉しい。 「すみません。少し喉が渇いて」 ああ、と頷くと志貴さまはさっとコップに水を入れて手渡してくれた。 礼を述べながらコップを受け取り、ゆっくりと水を飲む。 ……美味しい。 喉の渇きに目を覚まして、ずっと欲しかったもの。 ほうっと溜息をつく。 ふと、気がつくと、にこにこと志貴さまが私を見ていた。 急に恥ずかしくなる。 それを隠す様に、先ほどからの疑問を口にした。 「何をなさっているのですか、志貴さま?」 「ええとね。琥珀さんもいないだろ」 「何かまともなお薬を貰いに行くとか言っていました」 「うん。それで、そろそろお昼だろ? 風邪で食欲ないかもしれないけど、少しくらい お腹に入れないと体力がつかないだろうと思ってね」 機械的に相槌を打って、気がつく。……え。それはもしかして。 「私の為に何か作って頂いているんですか、志貴さま」 「まあね。あ、でも別に大したものじゃないよ。定番のおかゆだけど、一応鰹節多めで ダシをとって梅をほぐしてといった程度、食べられるかな?」 「はい、いただきます。……嬉しいです」 「じゃ、座って」 勧められるままに椅子に座る。 と、志貴さまは一人用の土鍋を置き、食卓の角を挟んで向かい合うように自分もお座 りになる。 そして、木の匙を手にして……。 え、何だろう? 「はい、あーん」 少しおかゆをすくって私の口元に寄せる。 えっ、ええっ、これ……。 びっくりして志貴さまの顔を見つめる。 「病人なんだから、きちんと言う事を聞くこと。はい、口を開いて」 おずおずと口を開く。 匙の先が唇に触れた。 こうなると食べさせて貰うしかない。 口を寄せ、匙を含む。 志貴さまがつくってくださった料理。 ゆっくりとその最初の一口を味わう。 もぐもぐとはむ様を志貴は心配そうな顔で見ていた。 「どうかな、味のほうは?」 「美味しいです」 「そうか、よかった」 もう一匙おかゆをすくうと湯気をふーっと吹いてまた差し出してくれる。 「はい、あーん」 今度は顔を紅くしつつも、躊躇わずに志貴さまに従う。 何度かそんなやり取りをした後、呟く。 「お仕えする私が、志貴さまにお世話いただくなんて……」 「普段、必要以上に世話をかけているんだから、翡翠が風邪ひいて倒れた時くらい、立 場が変わってもいいじゃないか。看護とかは琥珀さんが全部してるんだから、これくら いしても罰は当たらないさ。 それとも、こうされるのは嫌?」 「嫌じゃありません」 慌てて頭を振る。 「なら、気にしないで。して貰いたい事は何でも病人の特権で我侭言っていいから、た まにはご主人の好意に甘えなさい」 志貴さまは笑ってそう言うと、また匙を手にした。 食事の続き。 「ごちそうさまでした」 「おそまつさま」 「はい、志貴さま。本当にありがとうございました」 「たいした事じゃないさ。いつもの格好じゃなくて翡翠のそんな可愛いパジャマ姿見ら れたから、得した気分だし」 今、初めて自分の格好に気がついた。 こんな格好で志貴さまの前に……。 顔から火が出そう。慌てて食堂から飛び出す。 「じゃあ翡翠、暖かくしてちゃんと横になるんだぞ」 そんな志貴さまの声がかすかに聞こえた。 ……と言った光景を夢想していた翡翠は病床で溜息をついた。 翡翠が横を見ると、琥珀が何かしているのが見える。 ほとんど嬉々として琥珀は翡翠の看病をしていた。 翡翠にしても、姉にあれこれ世話をやかれているのは決して嫌ではない。申し訳なさ と幾分かのくすぐったさの混じる今の感情は嬉しさを色濃く含んでいる。 だから、さきの溜息は琥珀に対してではなく、別な事に対して。 「それにしても、志貴さまも一緒に風邪でダウンだなんてね」 そう、志貴もまた自分の部屋で床についているそうである。 昨日から調子を悪くして、琥珀に「風邪ね、翡翠ちゃん」と診断されてから、ずっと 自分の部屋に隔離されているので、どんな具合なのか姉の言葉からでしか窺い知れない のだけど。 だから、翡翠の主人がお見舞いに来る事も、逆に翡翠が看護する事も出来ない。 「いったい二人して何をしていたのかなあ?」 「えっ、別にそんな」 風邪でなく顔を赤くする翡翠。 「冗談よ。志貴さんがふらふら夜に外にいるのを心配して見に行って、そのまま二人で 寒空を見上げていたんでしょ」 翡翠がびっくりしたように頷くのに、琥珀は笑いかける。 まあ、熱で朦朧として頭が働かない時に、あれだけ追及されて韜晦し切ったのだとす れば、志貴さんも大したものですけどね。 そうまでして真実追求をなさった秋葉さまもお見事ですけど。容赦無しですものねえ。 胸の中で一人呟く。 「でも、秋葉さま、嬉しそうに志貴さんのお世話していて、翡翠ちゃんとしては残念ね」 「……」 ほとんど表情が変わらないが、さすがに姉には妹の顔から不本意とか無念とかいう感 慨を読み取る。 「……“自分は、父の死ぬ時に起こりうるすべてを、以前から考えていた。方策も見つ けていた。しかし、父の死の時、自分もまた死の境にいるとは考えもしなかった。”っ て処かな」 歌う様に呟くと琥珀はタオルを替えに部屋から出て行った。 翡翠は毛布を顔まで引っ張ると、心地よい暗闇の中に篭ってしまった。 § § § 喉が渇いていた。 どれだけ眠っていたのだろうか。 ほんの数分? それとも数時間? まだ暗くはなっていないけれど。 翡翠はぼんやりとそんな事を思いながら、ベッドから上半身を起こして部屋を見回す。 琥珀は……、いない。 傍らのテーブルを見るがさっき水を飲ませて貰ったコップは空。 翡翠は起き上がると、ふらふらと台所へと向かった。 床が柔らかい。 一歩ごとに大きく体が傾く様な感覚を憶える。 食堂の入り口に入り、そこで意外な人物に出会った。 「志貴さま……」 「あれ、翡翠。どうしたんだ、寝てなきゃ駄目だろう」 「それは、志貴さまも同じでは? 私はお水が欲しくて」 「ああ、喉渇くよなあ。じゃあ、これでよければ」 翡翠が持っていたコップを差し出すと、陶器のポットからこぽこぽと薄金色の液体が 注がれる。 「ぬるめの烏龍茶だけど、あまり冷たいものじゃない方がいいと思うよ」 翡翠は礼を言って、こくこくと喉を潤す。 志貴はあまり露骨に見つめ過ぎない様にしながらも、翡翠の姿をちらちらと眺める。 いつものエプロンドレスではない、パジャマを着ている非常に希少価値のある姿。 病み上がりでいつもの硬い感じが薄い。 どこか弱々しく見えるのが、妙に保護欲を刺激する可愛さを感じさせる。 ふうと軽く溜息をついて、翡翠が顔を上げると、志貴は慌てて目をあさっての方角へ 向ける。 翡翠はそんな志貴の様子には気づかず、テーブルに並べられたものの方に注意を向けて いた。 志貴の前には鍋物の時などに活躍する大きな土鍋と小さい器、レンゲなどが並んでい る。 ちょっとシチュエーションは異なるが、さっきの自分の夢想を連想させる。 じっと鍋に視線を注ぐ翡翠に気づき、それをどうとったのか志貴は説明した。 「少しお腹がすいてきてさ、秋葉の剥いてくれる実が少ないリンゴも食べ飽きたし、琥 珀さんもいなかったから、自分でつくったんだ。調度良く土鍋に出汁がはってあったか ら、適当に肉とか野菜入れておじやにして……。 少し翡翠も食べてみる? 琥珀さんには及びもつかない出来だけど……」 もっとも翡翠は味覚の許容度が広いから、とちらりと思ったが、さすがにそれは口に 出さない。 「よろしいのですか?」 「うん、作りすぎちゃったというか、皆の分も、と思ってたから量はあるんだ。」 「では、いただきます」 「じゃ、座ってて」 志貴は台所に入ると新しいお椀とレンゲを持って戻った。 「じゃあ、食べさせてあげるから。口開けて」 「あの、志貴さま、自分で。恥かしいです」 「誰も見ていないよ。病人は大人しく従いなさい」 「志貴さまも風邪をひかれて……、わかりました。あーん」 真っ赤になってそれでもおずおずと翡翠は口を開ける。 志貴にしてもいざとなると、おそるおそるといった感じで匙を近づける。 翡翠の口に匙が呑みこまれる。 口に入れられたおじやを翡翠はゆっくりと味わった。 「美味しいです」 「よかった」 また匙でおじやをすくって翡翠に食べさせる。 その様を、なんだか小鳥に餌をやってるみたいと期せずして二人共連想した。 何度かそのやり取りが進み、和やかに二人の時が過ぎた。 そして軽く椀によそわれたおじやがほぼ姿を消した頃。 「何をなさっているのです?」 冷たい氷のような声が二人の頭上から届く。 はっと二人が視線を向けると……。 凍りついた炎といった風情の秋葉の姿。 「人がうとうとしている隙にこっそりと抜け出したりして、兄さんは病人なんですよ」 努めて理性的に話そうとしているが、表情が裏切っている。 志貴は秋葉の方を向いたまま固まってしまった。 翡翠も突然の秋葉の出現に驚き、何をしたらいいのかわからず、ただ口の中のおじや をもごもごと咀嚼する。 空気が硬い。 「ごちそうさまでした」 「おそまつさま」 呑み込むと機械的に言葉が口から飛び出した。 志貴も反射的に言葉を返す。 なんとも今の雰囲気にそぐわないやり取りであったが、おかげで少しだけ場の空気が 動いた。 「じゃあ、翡翠、帰ってまた寝てなさい」 多少命令口調で志貴は言った。 翡翠はよろしいのですか、と問う意を目に込め、志貴は「大丈夫だから」と無言で返 事を返す。 窮地にある志貴を見捨てる様で多少後ろ髪を引かれるものがあったが、志貴一人の方 が対処しやすいかとも思い、翡翠は素直に従って、立ち上がった。 そのまま、二人の主人に頭を下げ、ふらふらと部屋へと戻る。 「ちゃんと暖かくして寝てるんだよ」 志貴の言葉が届いた。 「だから、ずっと世話してもらって疲れて眠ってたから……」 「ただ食事してただけだろう」 「わたしは兄さんの身を……」 「翡翠は病人だろ」 「秋葉も食べてみる……、口に合わないよな、こんなの」 「いえ、いただきます」 「味に期待するなよ」 食堂から出る迄に断片的にそんな志貴と秋葉のやり取りが耳に入る。 最後に振り返ると、さっきの自分と志貴のやり取りが秋葉に替わって行われていた。 非常に気恥ずかしいものを見た気分になって翡翠は早々に退散した。 部屋に戻ると再び翡翠はベッドに横たわった。 さっきの志貴とのやり取りが自然と脳裏で再生される。 風邪による熱の為だけでなく、どきどきと動悸が激しくなっていた。 顔も紅くなっているのがわかる。 明日は体調を万全にして、志貴さまのお世話をしないと……。 そう思って毛布を目深に引き寄せ、眠りの世界へと入っていった。 § § § 一方の志貴は、からくも秋葉を迎撃、あるいは懐柔したものの、新たなる強敵を迎え ていた。 「いえいえ、夕食に消化の良いおうどんを志貴さんと翡翠ちゃんに食べて貰おうと準備 してたのを、全部使われてしまった事なんか、私微塵も気にしていません」 「ごめん」 「いえいえ、本当にいいんです。でも、少し志貴さんが罪悪感を感じているのであれば、 私にもどんな出来かご馳走して頂けると嬉しいかなって」 「よろこんで。まだ残っているし。はい」 「ええと、お茶碗とお箸渡されておしまいですか……」 「えっ?」 「ふーん、翡翠ちゃんや秋葉さまは志貴さんに食べさせて貰ったのに、私だけ仲間はず れですか。志貴さんがこんな冷たい人だったなんて……。くすん、くすん」 「あー、わざとらしい嘘泣きは止めて下さい。わかりましたよ。まったく、琥珀さんは どこも悪くないでしょうに……」 苦笑しつつ志貴はお椀と匙を手にする。 「はーい、口を開けて下さい。」 「あーん」 「うん、美味しいですね。やっぱり志貴さん、こういうののセンスありますよ。お野菜 とかも病人でも食べやすく普通よりわざわざ小さくしてますしね」 「それはどうも。ところで、琥珀さん、どこから見てたんです?」 「うーん、何のことですか。あはは。志貴さん、手が遊んでますよー」 「はいはい。あーあ、俺、病人なんですけど……」 「大丈夫ですよ。明日あたりには翡翠ちゃんも元気になりますから、どっぷり悪化なさ っても三人がかりで手を変え品を変えてお世話致しますから」 一見魅惑的に思えなくもないが、その光景に頭を振ると、絶対に一刻も早く治ってや ると固く決意する志貴であった。 「それにしても食べさせて貰うのって思ったよりずーっと恥かしいですねえ」 「やってる方はもっと恥かしいですよ」 おしまい ―――あとがき 人間、甘いものを食べればちょっと口直しにお茶か煎餅でも欲しくなったりするもの です。 だから「志貴さん、苦しいですよね。蛇の生殺しみたいなものですものね、うふふ」 とか「ええっ、私志貴みたいなのついてないから出来ないよ」とかのお話ばかり書いて いると、他愛ない罪も無いついでに中身も無いお話などひねり出したくなるというもの です。 なんで翡翠かと言うと、普段のお話だとまず埋もれてほとんど出てこないからですね。 あと書いてて和むし。 書き手の心のバランス材みたいなお話におつき合い頂きありがとうございました。 ちなみに「自分は、父の死ぬ時に」云々というのは『チェーザレ・ボルジア あるい は華麗なる冷酷』(塩野七生)より引用。面白い本です。 by しにを 2002/2/3
二次創作ページへ