根も葉もない噂

 作:西紀貫之


「根も葉もない噂を立てようと思います」  トイレで排便中、琥珀さんが目の前に現れて……便座に腰掛ける俺にそう言 って微笑んだ。  ……日々の習慣から、ちゃんとカギは掛けたはずなんだが。しかし、気がつ く限り琥珀さんがカギをこじ開けたような気配は無かったのだが……それもや っぱり気がつかなかったのだろうか、俺。  パンツもズボンも上げるのを忘れ思考停止に陥ってる俺にかまわず、彼女は それだけ言ってきびすを返すと、後ろ手に扉を閉めてスタスタと立ち去ってし まったのである。  ……結局、そのあとに尻を拭いたのかも覚えていない。手を洗ってる段階で、 今のはなんだったのかと、やっと首をひねる有様であった。  いや、ほんと。なんだったんだ、今の。  うーむ。  翌朝、俺はそんなことがあったのも忘れて学校へ行く支度を整えてリビング に下りてきた。いつものように琥珀さんと翡翠が準備した朝食がテーブルに並 べられ、秋葉が俺を待つように上座の椅子にチョコンと腰掛けていた。 「おはよ〜」 「おはようございます」  秋葉も顔を向けて挨拶を返してくれる。詰襟の俺のように、秋葉ももう制服 姿だ。浅上の制服だが、俺と同じ学校に通っている。 「……しかし、秋葉がうちの学校に通い始めるようになってしばらくたつけどさ」 「はい?」 「友達増えたかい?」  お兄ちゃんは心配だよ。 「親友と呼べる人はまだいないですが、仲の良い友人なら……何人か」 「お兄ちゃんは秋葉が高飛車な態度をとって孤立してやしないかと心配してた んだよ?」 「誰が『お兄ちゃん』ですか」  苦笑する秋葉に笑い返し、俺も席に着く。 「おはようございます志貴さん」 「おはよう琥珀さん」  琥珀さんが差し出す湯飲みを受け取りながら、笑いかける。 「…………どうぞ」 「…………」  ん?  琥珀さんが紅茶のティーカップを差し出す。  無言で受け取る秋葉。  なんかおかしいな。 「……どうしたの?」 「なんでもないですわ、兄さん」 「なんでもないですよ、志貴さん」  二人ともにっこり。  …………なにかあったな。 「ほほほほほほほ」 「ふふふふふふふ」  そこはかとない不安を感じつつも、俺は一口、茶をすすった。  しかし最近も暑くなったもんだ。  学校内部では空調が効いているので、まぁアレなんだけれど。こう歩いてい くのがまたキっついんだよなぁ。汗ばむしさ。  ……。  隣を歩く秋葉は、なんか涼しい顔をしている。さすが冷血。 「なにか失礼なことを考えてるんじゃありませんか?」  視線に気がついた秋葉が鋭く指摘。侮れないやつめ。 「いやさ、今朝のことなんだけど……琥珀さんとなんかあったのかい?」  と、秋葉の眉間に一瞬しわが寄せられる。 「なんでもありませんわ」  プイとソッポを向く。  これ以上はもう何も聞くなと言う素振りだな。 「まぁ、いいけど。仲直りしとけよ」 「……なにもないと言ったはずです」 「はいはい」 「……もう」  ふー、暑い。  そんなこんなで、信号渡るとそこはもう学校だったりする。  校門を潜り、昇降口へ向かう。  秋葉とは、そこで分かれる。学年違うしね。 「ちゃんと勉強してくださいよ。でないと来年、同じクラスになるかもしれな いんですからね」  と、秋葉は言い、そのあとに「それも良いかも」などと呟いている。 「わーってるってば。安心してくれ」 「乾さんとかと付き合ってると、成績が落ちてしまいませんか?」 「……秋葉、おまえそれは」 「あ、ごめんなさい。口が過ぎました」 「いや、まったく持ってそのとおりだ」  俺は首肯した。  有彦なんぞ、百害あって一里塚。 「肝に銘じて勉学に励むことにしよう」 「……は、はぁ」  と、下駄箱へ分かれようとした矢先のことだった。 「あ、遠野さ〜ん」  と、女の子の声。  うれしそうに振り向こうとした矢先に秋葉のつま先が脛に叩きこまれた。 「あら、明石さん、おはようございます」  悶絶する俺を無視して、秋葉は爽やかな笑顔で挨拶をしている。  ショートカットの女の子だ。くっそー、いいなぁ。てっきり俺への挨拶だと 思ったんだがなぁ。 「もう、遠野さん……聞いたわよ!」 「……は?」  女の子は真剣な、それでいて困ったような顔で秋葉に詰め寄ってそう言った。  対する秋葉は素の表情で首をひねっている。 「なんです? いきなり」 「もう、いくら転入したてだって言っても、いくらだって相談に乗るのに  ……水臭いわ」  ……なんのこと? 「もしものときは、ちゃんとカンパするからね。……でも」 「…………か、かんぱ?」  女の子はいったん回りを気にし、周囲に知った顔がいないのを確認してから ……こう口を開いた。 「遠野さん、妊娠しちゃったんでしょ?」  ……秋葉のクラスならまだしも。 「おい、遠野ぉ〜。聞いたぞぉぉおおおい」  誰に聞いたのか、秋葉妊娠と言うデマを、しっかり遅刻してきた有彦がしっ かりと知っていたのは納得できない。 「ノーコメントだ」 「おいおいおいおいおい、俺の秋葉ちゃんが他の男の子種を孕んだんだぞ!?」 「突っ込みどころ満載なやつだな、おまえは」  なにはともあれ、否定だけはしとかないとなぁ。 「秋葉は妊娠なんかしてないよ」 「そうなのか!?」  妙に嬉しそうな有彦。 「少なくとも、有彦。秋葉を襲おうものなら、睾丸を万力で徐々に締め潰され て返り討ちにあうぞ」 「………………」 「………………」  いかん、言って自分も股間が寒くなってしまった。 「まぁ、根も葉もない噂だよ、そんなの…………ん?」  根も葉もない噂?  なんか引っかかるな。なんだっけ。 「ま、まぁそういうこった」 「んー、おおかた俺の秋葉チャンをひがんでのデマなんだろうな。出所はどこ なんだろうか……うーん」  有彦が腕を組む。まぁ、噂の出所なんてもんはえてして分からんもんさ。  そして昼休み。  なんか見慣れない女子の集団が教室の外から俺を伺っている。……制服から 察するに、一個下か。なんだろう。  その女子集団……七八人だろうか。彼女らは円陣組んでヒソヒソ話をしたか とおもうと、たまーにチラチラとこっちを伺い……そしてまたヒソヒソ話。  有彦はさっそく飯食いにいっちゃったし、なんかこう、独りで居心地が悪い。  と、気にしないように俺のほうから視線を外したのを合図に、女の子たちは 頷きあって……教室に入ってきた。  クラスメイトも何事かと身を退き……教室の空気はピーンと張り詰めてしま った。みんなその集団と、俺に注視して、言葉も発せずに箸を止めている。 「……な、なにかな?」  東西南北四方八方を囲まれ、椅子に座ったまま立てずにいる俺を、女の子た ちは敵意むき出しの視線を打ち下ろしてくる。  な、なにかしたか、俺。 「遠野先輩!」 「は、はいぃ!」  つられて返事する俺。 「どう責任取るんですか!」 「は?」 「秋葉ちゃんのおなかの子の責任、どうやってとるんですか!」 「ほゑ〜!?」  ざわ。  ……ざわ。  …………ざわ。  教室がにわかにざわつき始める。 「って、おい。なんで俺が!?」 「「「「「「「「言い訳しない!」」」」」」」」  八方から女の子たちの怒号で打ちのめされ…… 「はいぃい!」  ……俺はまたも……はふー。 「実の兄妹で! しかも学生同士で生で中出しするなんてどーいうつもりです!?」 「いくら屋敷で二人一緒だからってモラル無さ過ぎです!」 「一回はじめたら抜かずに三回出すって本当ですか!?」 「メイドさんの格好とかでイメージプレイとかもしてるそうじゃないですか!」  ざわ。  ……ざわ。  …………ざわ。  おいおいおいおいおいおいおいおいおい。  なんだそりゃぁ。 「お……」 「産むって言ったらどうするんですか!」 「泣くのはいつも女なんだから!」 「きー! わたしなんかまだなのにー!」  ひ、ひぃぃいいいい! 「遠野君、それほんとなの?」 「へ?」  ……いつのまにか。  俺は、十重二十重と……クラスの女子にまでも囲まれていた。  場合が場合でなければ、まぁ嬉しい状況なんだろう。  場合が場合だったらの話。  ざわ。  ……ざわ。  …………ざわ。  しかも、殺気を孕んだ男子どもの……こう、何と言うか。  ざわ。  ……ざわ。  …………ざわ。  ひ、人いきれで暑いにも係わらず……なんだこの寒気は。  む、無言の威圧が……。  ……ダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダダッ! 「遠野〜!!」  人垣の向こうで有彦の声がする。  きっと、またどこかで聞きつけてきたんだろう。  いったいだれだ? 秋葉の妊娠デマと父親が兄貴の俺だなんて言い触らして るのは! 「貴様ー! 兄貴のクセに秋葉ちゃんのオ、オマ、オマン……ぐぉぁあ!」  妙に鈍い打撃音の後に、有彦は沈黙した。  なにがあったんだろう。  ざわ。  ……ざわ。  …………ざわ。 「にいさん」  うぁ、聞き覚えのある声が……。  そして、人の波がズバっと割れて……モーゼが姿を現した。 「なにやらデマが飛び交ってますが……ここは二人で否定しておくのがよろし いかと」 「おお、おう、おう。そのとおりだ」 「皆さん?」  秋葉はまさに遠野家当主の風格然として、皆を睥睨する。  知らず、クラスはもとの静けさを取り戻していた。 「私はまず、妊娠なぞしておりません」  ざわ。  ……ざわ。  …………ざわ。 「ええ? でも……」と言葉を挟もうとする女の子に耳をかさず、秋葉は言葉 を続ける。 「誰が言ったか知りませんが、そんなことは根も葉もない噂です!」  しーんと、水を打ったように静まり返る教室。  ふうと息をつき、秋葉は満足げに頷いた。 「さ、兄さんからも言ってあげてくださいな」  お、おう。駄目押しってやつだな。  おれはここで初めてすっくと立ち上がり、大きく息を吸うとエヘンとひとつ 咳払い。ため息混じりに言葉を選び、みんなが納得するであろうことを並べて 口を開く。 「聞いてくれみんな。誰が噂を流したか知らないが、俺と秋葉にそのような事 実は無いよ。だって秋葉は一見綺麗で可愛いけれど性格怖いし、何かあるとす ぐに拳が飛んでくるし、胸もないし、とても素のままでは押し倒す気にはなれ ないだろう? それに秋葉は遠野の家の当主で、俺の小遣いもつきに三百円と 過酷な条件をつけてくる暴君だし」  言わなくてもいいことも言ってしまったかもしれないが、これでオッケーだ ろう。はっはっは。  みんなの視線が秋葉に集中し、拳の一撃で沈められた有彦に一瞥をくれて、 そしてまた秋葉に戻った……のだが、みんなして目を逸らす。 「ふふふふふふふふふふふふふふふ」  あ、なんかやばいかも。 「兄さんは私をそんなふうに思ってるんですよ? だから私と兄さんがシッポ リもっこりなんてことはずぇええええええええええええええええええええええ ええええええええええったいに有り得ないんです!」  言ってて、なんか涙目の秋葉。 「その通りさ。立つものも立たないさ」  はっはっはっは。……少し寒気。 「睾丸を万力で徐々に締め潰すらしいし……」 「そうよね、今もあの乾君を拳の一撃で……」 「月に三百円って、遠足のおやつだって……」  ざわ。  ……ざわ。  …………ざわ。  うむ。よしよし。みんな納得してくれてるようだ。 「ふぇ……」  ん? 「ふぇえええええええええええん!」  ……秋葉、なんか泣きながら行っちゃったけど……。  ま、いっか。はっはっはっはっは。  結局、秋葉は早退してたらしい。一緒に帰ろうと思ったけど……。 「ただいまー」  門で待つ翡翠に声をかけ、俺はなんとなく秋葉の事を聞いてみた。 「秋葉さまでしたら、泣きながらお昼過ぎに帰られた後、自室にこもってしま われました」  あ〜。やっぱり。 「なにかあったんですね?」 「なにかあったんですよ」  門を開けると、ちょうど玄関のほうから琥珀さんがテコテコと……って、あ、 思い出した。 「お帰りなさい、志貴さん」 「ただいま……って、琥珀さん」  にっこり笑って、琥珀さんはテヘっと舌を出して苦笑する。 「いやぁ、やりすぎだったみたいですねえ」 「やっぱり琥珀さんだったか」  俺はため息をつく。 「今日はひどい目にあったんだよ? またなんでそんなことを……」  琥珀さんは視線を外しながらモジモジとし始める。 「だって、秋葉さまったら酷いんですよ? あたしのアソコにはくもの巣が張 ってるとか言うんですもの」  は、はぁ……。 「その前に姉さんも秋葉さまに、やりすぎで最近乳首が黒くなってるとか言っ てましたし」  は……はぁ……。 「と、とにもかくにも、はやく仲直りしてね。胃に穴が開く前に」  苦笑交じりでそう言うも、琥珀さんはあいまいな笑みで答えてくれなかった。  今日もいろいろあったなぁ。  トイレで排便中、俺はため息混じりに今日のことを思い返していた。  さて、尻でも拭こうかとしたときに……。  ……がちゃ。  突然ドアが開き、秋葉が据わった目をして現れた。カギはどうしたっていう 疑問をよそに、そのまま便座に座って見上げる俺を、ギロっとばかりに見下ろ した。 「な、なに?」  パンツもズボンも上げるのを忘れ、俺はそう尋ねるのが精一杯だった。 「兄さん」 「は、はい」  秋葉はティッシュの箱を片手に、一歩踏み込んでくる。 「根も葉もない噂で、今日わたしはすごく傷つきました」 「お、おう。たいへんだったな」 「それ以上に、兄さんのフォローにならないフォローで私が傷つきました」  あ、やっぱり。  「なので心の傷を兄さんに慰めていただきます」  ……はぁ。 「根も葉もない噂で傷ついたのですから、兄さんに根と葉を生えさせていただ きます!」  言うや否や、秋葉はパンツもろともスカートを脱ぎ去った。 「おいおいおい! なにしてる、おれはまだトイレ中で……!」 「何をおっしゃいます、兄さんも下半身丸出しでやる気十分じゃないですか!」 「いや、おいおい! ぬお!」 「さぁさぁさぁさぁさぁ! 妊娠するまでたっぷり中で出してもらいますよ!   五回や六回で許してもらおうなんておもわないことです、兄さんんん!」 「あ、あひぃ!」 「ふふふ、今日は一段と激しいですね〜」  琥珀はイヤホンから流れるそんなやり取りを聞き、隠しカメラでしっかりと 写した秋葉の乳首を見ながらニヤニヤと笑っている。  翡翠は家人たちのそんなやり取りを見ながら、静かに、深く、大きくため息 をつくのであった。  完
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