暖かい日差し、爽やかな風。  空は蒼く澄み渡り、ゆっくりと白い雲が流れていく。  端的に言って気持ちのよい朝だった。  何か良いことがありそうな一日の始まりを感じさせるような。  しかしである。  目覚めの時から、遠坂凛は不調であった。  いや、彼女には目覚めの時には不調が常であった。が、その寝起きの悪さからくるそれとは異なる変調。  遅くまで没頭した研究による睡眠不足。  挙句失敗に終わったやり切れなさと疲労。  そして、その……。  マイナスになりそうな鈍鬱たる頭を振る。  冷蔵庫を開け、冷たいミルクを呷る。  そして、熱いシャワーを浴び、身支度を整えた。  無言で家を出る。  まだどんよりとした雰囲気で、いつもよりは緩慢な足取りではあるが、学校に向かいはしたのだ。  外観には表さず。むしろ普段より悠然とした、あるいは優美な足取りと、他者からは見えたかもしれない。  内心は違う。朝の登校の道すがら強固な仮面の内側では、これはまずいだろうかと何度か思っていた。  結局は、大丈夫と判断するというより、普段通り過ごしたいという希望を重視した。  それから数時間。常ならず時の流れがゆっくりと感じられつつの授業の進行。  午前の授業は、何とかこなした。  学校はある意味、いちばん己を偽る場所。その緊張感と仮面をつける習慣性から、体の違和感を押し殺せたのかもしれない。  昼は、何も食べなかった。まったく食欲などなかった。  一人になり、座った姿勢のまま、己の体を抱くようにして過ごした。    そして午後の授業。  何度も高波が体を揺らした。  体がひとりでに動きそうになる。  あるいは、突然に立ち上がり、教室を飛び出したくなる。  だが、耐えた。  外からはせいぜい表情の硬さが覗える程度。  それすらも、長年の猫かぶりの成果で、授業への集中と目に映らなくもない。  しかし、最後の授業前の休み時間。  それが限界だった。  あと一時間がどれだけの長さに感じられるだろうか。  たまたま今の時間は担任の授業だった。  早退したいと告げると、あっさりと承認された。  辛さを抑える演技を僅かに緩めただけだが、効果はあった。  頭を下げ、凛は手早く荷物を手にした。  ついつい足が速まりそうになるのを抑える。  教室を出て、廊下を歩き、そしてがくんと膝を落しそうになった。  壁に手を付きこらえる。  もう、授業が始まる寸前と云う事で、ほとんど誰もいない。それでも無様な姿は見せられなかった。  だが、もう限界近かった。そのままであれば、遠坂凛は敗れ去っただろう。  虚ろな目。頼りなげな顔。  しかし、そうしていても  だが、幸か不幸か、たまたま廊下で見知った顔が。  衛宮士郎。  さすがに彼だけは、恋人の姿に違和感を感じ近寄ってきた。 「どうした、遠坂。具合でも……」 「凄く悪いの。もう我慢できないくらい」 「保健室……」 「保健室じゃ役に立たないの」 「え? ……魔術関係か?」  声を潜める士郎に、凛は小さく頷く。  そのまま口をあけないで呟くように言葉を発する。 「士郎の顔見たら、少し持ち直した。  お願い、次の授業終わったら、迎えに来て」 「わかった。けど、本当にいいのか。  何だか顔が熱っぽくなってるぞ。帰るなら俺も付き合う。無理は止めろ」  声を潜めつつも心配の色は濃く、早退を進める声も力強い。  その表情に、少しだけ凛は癒される。  心に引き摺られ、体も。  平気よと声を出そうとする。  事実、少し楽になった。  条件反射的に、強がってしまう性癖の為もあろう。 「遠坂」  しかし、士郎は立ち去ろうとしない。  それを見て、凛も不安になる。  士郎がいなくなったら。  少し気を張り詰めている状態から支えがなくなったら。  それでも平気でいられるだろうか。  迷い、決断する。 「ごめん、士郎、授業休んでくれる?」 「ああ」  申し訳なさそうに言う少女に、少年は笑顔で頷く。  頼られた事で、胸に起こる想い。  しかし、すぐに笑みを薄める。  苦しそうな彼女を前にしてたから。 「先に説明しておく。わたし、ちょっと普通ではない状態なの」 「普通でない?」  言葉を探すように、凛はしばし宙に目をさ迷わせた。  言い辛そうにして口を開く。 「端的に言うわ。発情しているの、わたし」 「じ、発情って」 「体が熱っぽくなって、感じやすくなって。ちょっと気を緩めるととんでもない事をしそうになる。  頭の中も、油断すると変な考えでいっぱいになりそう」 「冗談だろ」 「本当よ、こんな士郎を幻滅させそうな嘘言わないわ。  まるでこれ、士郎に体中キスされた時みたい……くうっ」  自分の体を抱きしめるような仕草。  それだけなら、痛みか寒さを堪えたようにも見える。  けれど、その微妙な震え、身悶えの様。  本人が語ったように、どこか熱を帯びた顔。 「しまった、馬鹿。  ただでさえ、方向性がなくて、渦巻いていたのが、出口を見つけて一気に限界近くまで来たっていうのに。  ずっと意識しないでいたのに」 「出口って」 「士郎よ、決まってるでしょ」 「俺?」 「わたしの情欲の対象、ただ一人発情する相手」  当たり前のように告げる凛に、むしろその恥ずかしい言葉を向けられた士郎の方が真っ赤になっていた。 「いやよ、学校でなんて。  それに、ここでしても気休めにもならない。  おさまらないわ。  術式はずっと考えて頭で編んだから、後は帰れば何とかなる」 「そら、遠坂……」 「まさか」 「うん、おんぶしてやる」 「嫌よ……」   「違うの、それは見栄え悪いけど、言ってくれたのは嬉しいし……。  こんな状態で士郎に触れたら……、わたし、きっと恥ずかしい真似する」 「やっぱり無理だ。  いいから、俺に任せろ」 「士郎の背中……」 「うん?」 「意外と大きいのね。  背中に当たる柔らかい感触。  制服越しの二つの胸の膨らみ。 「遠坂?」 「な、何?」 「いや、その、胸が……」   はっとして凛は身を離した。  ぴったりと密着した士郎の背中と凛の体。  それがより強く押し付けられていた。  首筋に掛かる息。  吐息、喘ぎ声。  なまじ顔も見えぬだけに、その泣いているような声は士郎の耳を奪う。  それだけで、体が刺激される。  ふたりの秘め事が否応無しに想起される。  いや、まさにこれから遠坂と交わる為に、家に向かっているんだ。  そう改めて認識すると、凛を負ぶっている行為すら、変な事をしている気分にさせた。 「士郎の、かたぁぁい、おおきなぁぁ、おちんちん。  濃くていっぱいで、飲みきれなくて、口から溢れる士郎のみるくぅぅうう」  熱い吐息。   「だめ、士郎……」  声が出るのも苦しい状態で、それでも大きな声が上がる。  何だと立ち止まると、遠坂の体が硬直した。  首に回った腕がぎゅっと締まる。  どうした、と振り向こうとすると、ふっと圧力が解けた。  腕の力が抜け、触れ合っている部分が柔らかくなった感じ。  そして、すすり泣くような声。  訳がわからない。  ともかく、遠坂を落ち着かせよう。  そう思って士郎が振り向きかけた時、腕に異変が起こった。  遠坂の脚に触れ、遠坂の腰に触れた部分。  とっさに感じたのは温かさだったか。  何だか分からない。  何が起こったのか。  ただ、突如の違和感だけだったかもしれない。  早足にしていた足が止まった。   「遠坂?」 「ごめんなさい、ごめんなさい……」  泣いている、遠坂が泣いている?  何で、こんな。  肩口のあたりに、顔が触れている。  そこから何かがこぼれてきている。  涙だ。  本当に、遠坂が泣いている。  振り向きかけた体が一気に動く。凛を背負ったままの為、凛の体もぐるりと半回転する。  己の尻尾を追いかける子犬にも似た、外から見れば笑み誘う有様。  しかし、士郎はそれだけ慌てていた。   「どうしたんだよ、何で泣いてるんだ?」    ともかく声をかける。  わからない、わからない。  遠坂が泣いているという衝撃的な事実に、他の事なんか頭から離れてしまった。  早く、遠坂の家に行かねばならない事。  遠坂が妙に体を浮かせようとしている事。  腕にある何か。  ぽたぽたという音。  ……ぽたぽた?  ふと、下を見ると  足元に黒い染み。   「何だ?」  濡れていた。 「平気だから」 「全然気にしない」 「遠坂のなら、汚くなんてない」 「本当だぞ」 「洗ってやるから」 「隅々まで全部」 「だから、泣き止んでくれ」