しまっていこう

 作:西紀貫之


 よほどのことがない限り、遠野の屋敷には静かな時間が流れていることが多い。  だが、あの夏の事件の爪痕が癒え始めてきたあたりから、遠野家にはしばしば ちょっとした騒動が起こることが増えてきた。  明日は学校が休みだという土曜の午後、遠野志貴は屋敷へと続く坂道を駆け上 がっていた。眉間に必死のしわを寄せ、息も荒げ、汗は額を流れ落ちていた。  学生鞄をガチャガチャと鳴らしながら、志貴は少し背後を気にする。  住宅街である。午後の日差しと不法駐車、静かな木立と見慣れた家々。  しかし志貴は安堵することなく、屋敷へ向かい息も絶え絶えとなりつつも止ま ることなく足を動かす。  志貴のそんな姿が、主人の帰宅を迎えようとそわそわしていた翡翠の目に飛び 込んできた。  初めは主人を確認した喜びの色が浮かび、次にその形相と疾走に疑問の色を浮 かべる。浮かべつつも、手早く門を開けて迎える用意をする。  志貴はそのまま門をくぐると、翡翠に「早く閉めて!」と言い捨ててさっさと 玄関を潜って行ってしまった。 「……」  翡翠は少し拗ねたように門を閉め、足早に主人の後を追った。 「ふひぃ〜、ふひぃ〜」  翡翠は、階段に背を預けて座り込み、息を必死に整えてる志貴の姿を確認する。 「…………志貴さま?」 「ふひぃ〜、ふひぃ〜」  翡翠は台所に向かい、冷えた麦茶を携えて戻ってくる。 「ゆっくりお飲みください。……なにがあったのですか?」 「さ、さんきゅ…………んぐっ」  プハーっと大きく息をつき、志貴は翡翠に差し出されたハンカチで汗をぬぐい 始めると、やっと安堵したかのようにもう一度ため息をついた。 「……なにがあったのですか?」  翡翠の静かな問いかけに、志貴は少し目をそらしながらハハハと笑って答えた。  何とか誤魔化そうと言うような雰囲気を感じ取り、翡翠は志貴の手に自分の手 を重ねる。頬がすこし動き、笑みを作る。 「翡翠?」 「志貴さま、私と志貴さまの間で遠慮は無用ですよ?」  志貴は疾走で高鳴っていた心臓を、愛情の動悸でさらに高鳴らせる。 「翡翠」 「でないと、志貴さまに対してもっと遠慮しない秋葉さまにチクります」  今度は不安と恐怖でドクンと鼓動を高め、志貴は声を詰まらせた。 「翡翠、強くなったね」  やっとそれだけ呟き、志貴はカラになったグラスを翡翠に返す。  受け取りながら、翡翠は志貴を促すように頷く。 「実は貞操を奪われそうになって……」 「は?」  志貴の述懐に翡翠はポカンと口をあけ、首をかしげる。  しばらく、志貴の荒い呼吸音だけが玄関に深く沁みていた。 「……もういっかいおねがいします」  冷たい目線で上目に睨み付け、翡翠は静かに言う。  志貴も翡翠のまっすぐな視線を受け止めつつも、苦笑交じりに息をつき答える。 「いや、その、アルクエイドにね」  知った名前を聞き、翡翠は余計に眉根を寄せる。 「志貴さま、貴方はまた女性を毒牙にかけてるんですか?」 「あ、いや、あのね」 「私や姉さん、秋葉さまはともかく、シエルさまの肛門にも牙を突きたてて、今 度はアルクェイドさまですか……陰茎の先っちょが乾く暇もないですね、志貴さ まは」  志貴、グゥの音も出ない。  それでも必死に言葉をつむぎだす。 「あ、あのねえ」 「浮気は男の甲斐性という人もおりますが、いつか刺されますよ?」 「あのねえ翡翠……」 「何でございましょう」 「俺は襲われそうになったの」 「襲ったんじゃないのですか?」 「逆だ、逆」  はぁ、と、翡翠はまた元の無表情で首をかしげた。 「アルクェイドさまのマンションに、昼日中なのをいいことに乗り込んだわけじ ゃないんですね」 「あのね、俺は逃げてきたの」 「強姦未遂で返り討ちにあいそうになったからじゃないのですか?」  志貴は暫し言葉を詰まらせ、変な汗をかきながら引きつった顔を翡翠に向けて いた。 「俺には男としての信用がないのかね?」 「志貴さまは女性にだらしがないですから」  ズバリ言う翡翠。 「ですから、そういう面を私たちは認めていますから、それを含めて信頼してお ります。が、そういった意味合いではまったく信用しておりません」 「ぐは」  もはや呻くしかない志貴。  「で……話を元に戻しましょう。本当にアルクェイドさまに襲われたんですか?」 「うん。いきなりだった」  志貴は回想するように目を閉じると静かに呟いた。 「下校途中だった。交差点のそばのガードレールに座って俺を待ち伏せしていた んだ、あいつ」 「アルクェドさまが?」  新しい麦茶を注ぎながら、翡翠は訊く。 「うん」と頷きながら志貴は麦茶のグラスを受け取ろうと手を出すが、翡翠はし っかりと間接キスをキメながらゴクゴクと飲み干した。  志貴、すこし悲しそうに続ける。 「で、なんかイライラしてるような感じがしたから敬遠してたんだ。でも、なん か獣じみた気迫で襲ってきてさ。こう、なんつーか、レイプされそうになる女の 子の気持ちがわかったよ。『あたしを抱けー! さもなくば無理やり犯す!』っ て叫んでたし」 「は……はぁ」  途方もなく信じがたい話だったが、翡翠は黙って聞きながら、麦茶を注ぎなお す。 「怖かったよ」  今度はちゃんとグラスを受け渡され、志貴は再びグラスに口をつけ……ようと して、翡翠にしっかり間接キスになるようにグラスを修正させられる。 「ティッシュの箱片手に襲い掛かってくる女吸血鬼っての、初めて見た」  ちゃんと間接キスで飲んでるのを確認しながら、翡翠は頷いた。 「嘘にしては突飛過ぎますし、もし嘘ならもっとマシなこと言うでしょうし。主 人を信じようとしないメイドもどうかと思いますし、ここはいったん信じること にいたします」  それもどうかと思うが、志貴は飲み干したグラスを翡翠に返し、立ち上がる。  息も整ってきたし、一安心できたところで、鞄を預けて階段を上がり始める。  上りながら、ついてくる翡翠を足を止めずに振り返る。 「ねえ、俺ってそんなに女の子にだらしがないかなぁ」 「はい」  即答であった。 「そ、そうか」 「秋葉さまや私たち姉妹はもともと志貴ラブでしたけど、新参者のシエルさまに も粉をかけてますし。四人の女性の貞操を蹂躙してるのに自覚が無さ過ぎます」  志貴はあせった。  手を出してるのはそれだけじゃなかったのだ。 「は、は、はは」 「ふふふふふふ」  志貴の乾いた笑いをさえぎるように、廊下の先から琥珀が黒い微笑みとともに 現れた。 「あら、姉さん」 「こ、琥珀さん、ただいま」 「おかえりなさい志貴さん。大変だったみたいですね」  なんかイヤホンのようなものを懐にしまいながら、琥珀は二人のそばまでやっ てくると志貴に耳打ちする。 「あまりオイタばっかりなされてると、毒もっちゃいますよ?」  志貴はグビリとつばを飲み込んだ。 「お医者様の娘さんや、親友のお姉さん、妹の後輩や親戚の小学生にも粉かけて るなんてことに、もし、もしなってたりしたら! ……たいへんですよ?」  『もしなってたりしたら』だけ強調して、琥珀は階下へ去ってゆく。  翡翠の冷たい視線に背中を押されるように、志貴は自室へ向かい弱々しく足を 踏み出した。  室内着に着替え、志貴はベッドに横になりながらボーっとお茶の時間をまって いた。  そろそろ秋葉も帰ってくるので、そうなったらお茶の時間でみんな集まる。土 曜の午後のちょっとした定例行事だ。  と、志貴が思ってた矢先にノックが鳴った。 「志貴さま?」 「ん、あいてるよ」  一声かけて翡翠が顔を出す。 「お茶の用意ができました。もう秋葉様もいらっしゃってますよ」 「あーい、いまいくよ」  扉を開けて待っていた翡翠と一緒に志貴は階段を下りる。 「今日はクッキーを焼いておりました」 「……ああ、琥珀さんか」  翡翠は料理ができないのを思い出して、志貴は呟く。翡翠はすっと目を伏せ、 志貴は慙愧で眉をしかめた。 「おかえり、秋葉」 「兄さんもおかえりなさい」  リビングに入った志貴は、待っていた秋葉と「ただいま」と笑いあいながら席 に着いた。 「今日は宇治の新茶なんですよ」  琥珀が急須とポットを持ってやってきた。翡翠はクッキーの盛られた皿を持っ て姉の後からついてくる。 「今日は緑茶かぁ」 「クッキーと合うの?」と、秋葉が琥珀に問いかけると、琥珀は「これが意外に」 と微笑み返す。  なんとも微笑ましい午後のお茶……だと志貴はおもっていた。 「しかし」  お茶をたしなみながら、秋葉がふと呟いた。 「兄さんはなんでアルクェイドさんを毒牙にかけないのでしょう」  志貴はお茶を気管に大量に注ぎ込んで盛大にむせた。 「粉はかけてたみたいなんですがねー」 「……そうなの? 姉さん」 「ええ、この前シエルさんがぼやいてたの盗ちょ……聞いちゃったし」 「粉をかけるのは兄さんですからしょうがないとしても、押し倒すことをしなか った原因がわからないわねえ」  と、ここで秋葉は初めて志貴を見る。 「なんでですか?」  三人はむせる志貴が落ち着くまでクッキーをつまみながら待った。 「……あ、あのねえ」  なんとか回復した志貴は憮然と腕を組み、不機嫌そうにそっぽを向く。 「おれだってそんなに女の子に声を掛け捲ってちゃいかんと気がつき、自重した んだ」 「「「嘘ですね」」」  三人そろって即断定。  志貴はビックリしたように三人を振り返る。 「なに言いますかあなたたちわ!」 「それはこっちの台詞です。処女に生で中出し三連発な兄さんですよ? 説得力 ありません」 「病弱だったのに精力だけはバケモノですもんねえ」  翡翠もコクコク頷いている。 「真実の愛に目覚めたのさ」  志貴は言うが、三人は聞き流す。 「やっぱり人間じゃないからでしょうか」  翡翠が呟く。 「それだと、秋葉さまも半分人間じゃないですからあぶないとこですねえ」 「それはないわ、だって兄さん、黒猫犯してたし」  志貴はのけぞった。 「獣姦すらやってのける兄さんよ? 穴があるならOKにきまってるでしょ。 …………まさか、有彦さんにまで手は出してないでしょうね?」 「だしとらんだしとらん! きもちわるいこと言うな!」  必死に否定する志貴。  秋葉は一先ず引いたが釈然としないままため息をついた。 「こう言うのは何ですが、アルクェイドさんは美人でスタイルもいいし無邪気で さっぱりしたいい性格ですしねえ」  琥珀がボソリと言う。 「乳がでかくて無神経なだけでしょ」  秋葉がムスっと言ってお茶をすする。 「でも女性ですよ?」  翡翠が言うと、二人は重々しく頷いた。 「女性ですからねえ」 「女の人だもんねえ」  志貴は部屋に帰ろうかなぁとか本気で思っていた。 「俺は女の人だったら何でも言いと思ってる男なのか、おい」 「否定できません」  即座に言われた。 「くそう」  琥珀は湯飲みを置いて一息つく。 「腑に落ちないんですよね」  琥珀は志貴を一瞥して秋葉に向き直るとクッキーを一つまみ口に入れる。 「アルクェイドさんになにがあるのでしょう」  うーん……と、三人は考え込んだ。 「やっぱり志貴さんに訊くのが一番かと」 「そうね、それが早いわね」 「……ですね」  三人は志貴に向き直る。  秋葉は志貴を横目に見ながら琥珀にふる。 「まだ効いてこないの?」 「遅効性ですからねえ」  志貴が何だろうと思った矢先に、その体がコテンと絨毯の上に倒れる。 「ありー?」  いやぁな予感に嫌な汗をかき始める志貴に、琥珀が近づいて体を起こす。志貴 、全身に力が入らないのか力なく弛緩した体を琥珀の腕に預けてヘラヘラと力な い笑みを浮かべていた。 「ま、また一服盛ったのかぁああ〜」  琥珀は頷いた。 「盛らなきゃ私じゃないじゃないですか、プンプン」  秋葉も志貴の体に手をかけると、琥珀と一緒に志貴をソファーに腰掛けさせる。  やわらかいクッションに沈み、志貴の体が安定する。 「今回の配合は?」  翡翠がお茶を片付けながら姉に問いかける。 「筋肉弛緩剤と自白財のブレンドです。お茶の成分にも負けない強い子ですよん」  志貴にウィンクする琥珀。 「あと三十秒もすれば自白効果も出てきますわん」 「へー、便利ねー」  秋葉、志貴のほっぺをつつきながら薬が回るのを今か今かと待っている。 「ううー」 「効いてきましたよー!」  志貴の様子を伺っていた琥珀が嬉しそうにそういうと、秋葉も詰め寄り、翡翠 もキッチンから駆けつけてきた。 「さて、何から訊きましょうか」  さっそく秋葉が主導権を握って口火を切る。 「兄さんはなんでアルクェイドさんを襲わないんです?」 「うーあー、それは……」 「それは?」 「アルクェイドが吸血鬼だからだよぅううう」  三人娘は顔をあわせる。 「理由になるんですかね?」 「詳しく聞いて見ましょう。なんで吸血鬼だとだめなんですか?」  秋葉、自分も血を飲むことがあるからすこし必死になって問いかける。 「だって、アルクェイドのやつ、すごい馬鹿力なんだ。もう、コンクリとか鉄骨 とか一捻りなんだぞ!」 「はぁ……」 「ようするに、へたに抱きしめられると骨が砕け首がもげる……と?」 「それもあるけど……」  志貴は諦めたのか、薬のせいなのか、うなだれたまま述懐する。 「だってさ、そんな筋力持ってるんだよ? そんな女の子のアソコにちんちん入 れたら、文字通り万力で食いちぎられちゃうだろう?」 「………………」 「………………」 「………………」  三人は無言で凍りついた。 「すごい締りどころの話じゃないですもんね」 「そ、そうね。それこそバケモノの……その、ちん……あそこじゃないと、入れ られないかもしれないわね」 「怖いですね」  三人は額をつき合わせて頷いた。 「……粉をかけておいて本気にさせたまではいいが、それに気がついて手を引い たのね、兄さんは」 「そうなんだよ、そういうことなのさぁあああ〜」  そろってため息をつき、琥珀と秋葉は立ち上がり、翡翠はキッチンへ向かおう と踵を返した。 「もったいなかったなぁ」  と、三人がその志貴の言葉に動きを止める。 「前の翡翠みたいに処女で初々しいし、琥珀さんと違ってアソコもきれいなピン クだし、秋葉と違って胸もあるし、なんでかなぁ。……あー、もう思い返すだけ でもう!」 「……………………」 「……………………」 「……………………」      夜。  月明かりのみに照らされたマンションの一室。  独りベッドで泣いてるアルクェイド。枕を掻き抱き、嗚咽が漏れている。 「ふぇーん、ふぇーん」  真っ暗な室内に、黒猫が現れてニャアと鳴いた。  ドンドン! ピンポーンピンポーン!  と、急にドアが乱暴に叩かれてドアホンが鳴らされたかと思うと、なにかを叩 き落すような音が聞こえてきた。  はなをすすりながら、アルクェイドは顔を上げ、玄関に目を向ける。  黒猫がまたひとつ、ニャアと鳴いた。 「なにかしら」  白い月姫は、トテトテと玄関まで歩き、鍵をはずして扉を開け…………ようと して、なにかが扉に当たるのを感じた。 「……ん〜」 「?」  呻きも聞こえる。  アルクェイドは顔だけ出すと、当たっている何かを覗き見た。  とたんに泣きはらした顔がパァっと明るくなる。 「あー! 志貴だー!」 「ん〜!」  そこには、簀巻きに猿轡、丁寧に熨斗までつけられて転がされている志貴がい た。熨斗書きにはこうか書かれている。 『かわいがってあげてください。名前は志貴と言います。何でも良く食べます』 「わあい、やったー!」  無理矢理ドアを開けるアルクェイド。志貴、くぐもった声を上げる。 「ふふふ、たーっぷりかわいがっちゃうぞー」 「んー! んー! んー!」  簀巻きをむんずと片手で掴み上げ、アルクェイドは打って変わった上機嫌で扉を 閉める。  そして、静かな夜のマンションにカギを掛ける音が冷たく響いたのでありました。 (終わり)  
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