週休二日

阿羅本 景


「……遠野くん、そこに座って下さい」  先輩は至って穏やかそうな顔をしていたが、俺はその言葉の端々に刺々しいモノが埋ま っている事を感じ取っていた。眼鏡の向こうの目も全く笑っていなかったし、俺の腕を掴 む手もまるで万力か何かに挟まれたのではないのかと思うほどがっしり捉えられていて。  咄嗟に逃げようかとも思ったけども、武運つたなく俺が怯んだ隙に先輩は俺の腕を取っ ていた。まだ放課後で廊下に生徒が残っていて、振り払って逃げるには人目が多すぎた ――もっとも先輩に逃がす気があれば、だが。  ……無かったんだろうな、全く。  それもあるし、その時に抗弁しようとした俺の瞳に一瞥くれた時に竦み上がってしまっ たからでもあった。サファイヤの球でも埋め込まれたかのような固く冷たい視線が俺の目 の奥を覗き込み、その瞬間……俺の本能はすぐに危機を覚えた。  幸い先輩はすぐに元に戻ったが、あれ以上やられたらもう一人のシキに障ったかも知れ ないほどの。いや、分かる。先輩は怒ってるんだろうな……  そしてその怒る原因を作ったのは俺だから、これも因果応報というか自縄自縛というか。 「………いやあの、先輩?」  俺が連れてこられたのは、茶道部室――という名の先輩独占スペースだった。有彦に聞 いても誰に聞いても本校舎にこんな部室があるのは知らないと言うのに、俺と先輩だけは 普通に来られるという不可思議な部屋。  ――この高校にはどれだけ謎のスペースがあるのだろうか?昔はロアが潜伏していたほ どだし……あれも全くひどい事件だった。  それで、俺のいる今の状況も、それに比べれば可愛くはあるが深刻さのベクトルが違う ので一概には比べにくい。 「遠野くん?話は座ってから聞きます。だから」  先輩は掌を上げて畳の上を示す。このまま抵抗すると、先輩の仕草は人差し指で畳の上 を指さすのに変わるだろう。そこまでやられると俺としても立場がないわけで。  俺はゆるゆると畳の上に正座する。茶道室だから正座すべきだ……というのもあったけ ども、今から始まる出来事に対しては胡座ではなく正座の方が向いているようで。  俺が正座して膝に手を付き、緊張のあまり前屈みになりそうになる背中を押し上げる。  先輩は俺の真向かいに腰を下ろした。それもお茶などを持たずに空手ですっと俺の前に。  ……おいでなすったか、と心の中では呟くが、さて先手が良いのか後手が良いのか、攻 めが良いのか守りが良いのか、虚の手が良いのか実の手がいいのか。  まだ夕日が差し込むには高く白い陽の光。  俺とシエル先輩は端座して、お互いの表情を読み合う。でもこういう勝負では先輩に敵 うすべはなくて…… 「……先輩?」 「二人っきりの時でもシエルって呼んでくれないんですね、遠野くん」  先輩の言葉に俺はう、と声を上げた。  ……先輩と俺とは確かにお互いの名前を呼び合う仲だけども……でもそれはもっぱらベ ッドの中だからなぁ、学校では気恥ずかしくて。  俺は頬を指先でひっかきながら小声で答える。 「いやぁ、先輩はやっぱり先輩というのがしっくりくるから」 「そーなんですよねぇ、遠野くんは遠野くんで、私は遠野くんにとってはシエルじゃなく て先輩なんですよね……困りましたね」  先輩は眼鏡の蔓に指を掛けてうーむ、と悩ましげに呟く。遠野くんが遠野くんで、とい うそ の先輩の発言の意味は一体何を意味するのか……わからないけども、先輩なりには なにか物思いに耽ることがあるのだろう。 「……そうです、遠野くん。話というのは他でもありません」  先輩はすっと頬を引き締めると、背筋を正して話を切りだした。  さて、今日も先輩が俺を引っぱり出してきたその真意というのは一体何か…… 「はぁ、なんでしょう先輩……」 「正直に答えて下さいね、嘘をついても分かりますから」  念を押す先輩に、俺は頷く。  こんなに先輩が俺のことを問いつめようとするのは、身体のことかさもなくば……  思わず震える指先を隠すように握り込んで、俺は努めて笑顔で答える。 「いやだな、俺がそんな嘘をつくわけが……」 「とみ女性関係の事になると遠野くんは普段の昼行灯ぶりからは予想もできませんからね」 「……あ、あ、そのこと?先輩?」    そうではないのかと思っていたけども、案の定というか……ごくりと飲み込む唾も固く 感じる。声帯と喉の筋肉が強ばるような気がして俺は軽く指で揉む。その仕草の意味する ところを読みとれない先輩じゃない筈だった。  じろり、と先輩の疑わしく強い視線を浴びる。  だが先輩は戯けるように笑って、手を握り合わせて小首を傾げる 「分かっているのでした話は早いですね、遠野くん」 「……」 「ならばちゃきちゃき答えて下さい。遠野くんと関係がある女性は……何人なんですか?」  ――ゴメン、先輩  そう言って俺は立ち上がって、走り出して逃げ出そうと思った。  だが、俺が腰を上げようと足を崩し掛けた瞬間に――俺の肩に重石が乗っかった。  いや、瞬間的にそう誤解してしまうほどの。  先輩が居合いの名人のように正座したまま俺の方に飛び掛かってきて、腰を上げる暇も なく俺の肩を押さえつけて……いた。  まるで瞬間移動したかのように先輩の顔が大きくなって俺の視界を塞ぐ。俺は先輩の目 に見据えられる。  怒っている?いやそうに違いないけども…… 「せっ、せっ、先輩それは……」 「……関係といってもそれはもちろんクラスの中で話をするとか、ご近所づきあいがある とかそう言うのは除きますよ……もちろん肉体関係です」  先輩は俺の瞳を覗き込んでこう尋ねてくる。  ……も、もしかして先輩の堪忍袋の緒が切れたのかな?それにしても藪から棒に……俺 は今日の前兆がどの辺にあったのか記憶を探ろうとするけども、生憎そんな悠長なことを している暇がない。 「……に、肉体関係ってど、どこまでデスカ先輩」 「……その辺は遠野くんの心持ち次第です。もっとも……過少見積もられても分からない 私じゃありませんからね」 「じゃ、じゃぁその……あの……」  肉体関係……や、やっぱりそうくるのか。  俺は思わず手を開いて指折り数えそうになったが、そんな挑発的な仕草を先輩の前で繰 り広げたらただでさえ無い命がもっとなくなるような気がして、心の中で数える。  ……いや、何人居るかではなくて、何人といえば先輩は許してくれるかというのが問題 だった。それは先輩一人ですよ、というのは先輩がもっとも喜ぶ答えであろう……だがそ れはまったきの事実ではない嘘なので、その後のことが全く保障できない。    二人とか三人とか、その辺が妥当だろう……嘘では無いという意味では妥当だが、それ が先輩が喜ぶ答えではない。  ……黙秘権行使、というのは許されないんだろうな。先輩は近代法精神じゃなくて神の 掟の住人だから。  先輩がじゅるり、と舌なめずりをしたような錯覚がする。  先輩に肩を封じられて動けない俺の前で。 「さぁて……遠野くん?二人は確実ですよね……三人ですか?四人ですか?」 「先輩、それを聞いてどうするんでしょうか……」 「どうするんでしょうかね?それは聞いてから考えることにします」  ……ああっ、悪い予感が、悪い予感しかしないっ。  えーっと、まずシエル先輩だろ、アルクェイドもあいつがあんな事をするからしちゃっ たし、琥珀さんとの関係は続いてるし、この前秋葉にも迫られたし、純情そうだった翡翠 もベッドの中では……あああああっ!  さ、さすがに4人というマキシマムな回答は……危険だ、危険すぎる。  いっそ「20人です」とかいって煙に巻こうという衝動にも襲われたけども、それは最 悪の結果を招きかねないし。  俺は先輩に睨まれながら、冷や汗を流した。  どうする?どうするという言葉ばかりが頭の中を駆けめぐる。案ずるより生むが安しな のかもしれない、だけども――  四人です、と正直に言うしかないのか。その後は天のみぞ知る領域だ。  俺はのろのろと口を開こうとした。唇が数詞を刻もうとするが、喉からその声を出すの を一国でも延ばそうとする。しかし、なんでこんな事に……  こつこつ、と物音がした。  茶道部の窓硝子が鳴っていた。  俺は先輩の視線から逃れるようにゆっくりと軋みながらそちらに首を向ける。 「……ちっ!」  俺よりもそれに対しての反応が早いのは先輩だった。舌打ちが鋭く鳴り、視界の片隅で 先輩が顔をしかめる。  俺がそれによって、目に映っているのは俺の逃避を望む幻覚ではなく、現実だったと知 った。  窓硝子の向こうで、ショートカットの金髪の美女が目を細めて笑っていた。  それも、俺に向かって手をぴらぴらと振りながら。  ――アルクェイドだった。間違いない。  くらり、と目眩がした。  アルクェイドが来たと言うことは、援軍ではなくて厄介事が増えた事を意味していて。 「な、なんでアルクェイドが学校に……」 「くっ!」  先輩が俺の肩から手を離し、立ち上がり様に窓に向かって飛び掛かろうとする。  だが、呆気にとられてぐらりと傾いた俺の身体のせいで、先輩の動きが遅れる  その間にアルクェイドは窓をがらりと開き、ふわっと軽く素早くジャンプして窓枠に飛 び乗る。まるで猫の仕草のような。  アルクェイドはそのまま茶道室に降り立とうと――  俺はそんなアルクェイドに咄嗟に…… 「アルクェイド、ここは土足厳禁」 「あ、そうだったね、和室だもんね」  アルクェイドは笑いながらパンプスを脱いで、飛んだときと同じくらい静かに畳の上に 降り立った。それに遅れて憮然とした顔で、先輩が立ち上がる。  むっとした不機嫌そうな表情を隠さない先輩に、余裕の笑みで向かうアルクェイド。  そして、この展開に不穏さを殺しきれずに座り込む俺。  つかつかとアルクェイドに歩み寄る先輩。胸ぐらでも掴みそうな勢いで―― 「……何の用ですかアルクェイド。それに窓の鍵は閉めたあったはずです」 「そう?まぁ私には関係ないけどね」  からからと楽しそうに笑うアルクェイド。そうだろう、空想具現化の能力のあるアルク ェイドにとっては、喩え先輩が結界を施していても入ってくるだろうから。 「今日は志貴がやってこないからどーしちゃったのかな、と思って学校に来ちゃった」  そして、笑いながら目の前にいる先輩を無視して俺に話しかけてくる。  ……学校には人目があるうちは来るなとは言ってあるけども、最近のアルクェイドはず いぶんとその辺が物慣れてきていて…… 「ね、志貴。こんな陰険眼鏡放って置いて遊びに行こうよ」 「誰が陰険眼鏡ですって?」 「それが気に入らないのならデカ尻でもバカチンでも何でも良いから、ね、志貴」  先輩が視線を塞ごうと顔を動かすのを、あざ笑うかのようにひょいひょい頭を動かして 俺の法を覗いてくるアルクェイド。俺はそんなアルクェイドに笑って答えるべきなのか、 あるいは救いを求めるべきなのか……わからなかった。  ただ腰が抜けたように座って、先輩の後ろ姿とパンプスを片手に下げたアルクェイドを 見つめている。うう、とかああ、とか俺は何か喋ろうとした言葉の断片を口に乗せている が…… 「そもそも今日は遠野くんの用事があるのは私なんです!だからとっとと来た窓から退場 して下さい!吸血鬼らしく敷居を跨がずに!」 「へぇ、シエルが用ねぇ……志貴の顔色が悪いわね、大方説教でもしようとしたんでしょ う?シエルは 」  アルクェイドはそんな指摘を口にする。先輩も図星だったのか、途端に口を噤んで仕舞 う。  先輩の背中しか見えないけども、きっと憎々しげな瞳を浴びせているに違いない、と確 信できた。このまま放っておくと先輩は激発する……  だが、そんな俺の危惧を無視してなおも続くアルクェイドの言葉。 「さっき窓から見たら、シエルが志貴の肩を押さえつけて……ああいう強圧的なのは良く ないよ、うん……だから」  すっとアルクェイドの身体が沈んだ。  なんの前触れもなく、崩れ落ちるように身を屈めるアルクェイド。そして風が吹くよう にするりと先輩の脇の下をくぐり抜けて、アルクェイドが――  先輩が慌てて振り向くが、それよりも遥かに早く俺の身体にアルクェイドの……  アルクェイドの手よりも先に、ふわっとした花の香りが鼻に感じる。そして。 「うわっ!」 「こーいうふうに……」  俺はアルクェイドに押し倒されていた。  正座したまま仰向けに倒れた俺の上に、アルクェイドが覆い被さる。  畳に押し倒されて焦る俺の瞳を、上からじっとアルクェイドが覗き込んだ。  赤い瞳。白い指が俺の顎に伸びる。 「……押さえつけないで優しく志貴には接しないとね」 「な、な、何やってるんですかっ!」  焦りと怒りに駆られた先輩が、無謀にもアルクェイドの肩を掴む。  だが、まるでびくともしない。それはそうだ、押し倒されている俺だってアルクェイド 相手だと眼鏡を脱ぎでもしないと何もできないんだから。  だがそんなことを忘れたかのように、うんうんと呻いて引き剥がそうとする先輩。 「そう言うあなただって押し倒しているじゃないですか!」 「やだー、シエルみたいに強引に押しつけてないよー。こうやってスキンシップを取りな がら優しく志貴に話を聞いているだけだから」 「がーっ、許しませんっ、神聖な学舎の中でこの私の目の前で不純な行為は」 「なによ、シエルだって良くやってるクセにー。私が知らないと思ったの?」  アルクェイドの売り言葉に、おもわず顔を赤面させる先輩。  なんだ、こんな状況でも可愛いところがあるんだな、などと思い始めた矢先に―― 「とにかく!今の遠野くんへの用事は私だけじゃなくて貴女にも問題なんですよ!」 「へ?それは一体どう言うこと?」  先輩の必死の言葉に、ようやくアルクェイドも構う気になったのか振り返る。  だが、その言葉の意味するところを理解した俺は、肌に粟が生じるほどの戦慄が走る。  まずい、このままだと圧力が二倍になりかねない! 「うわっ、先輩それはちょっと……」 「邪魔が入りましたけど、答えて貰いますよ。遠野くん」 「……何のことを聞いてるの?志貴に」  頭の上に「?」を浮かべていそうな、アルクェイドの疑問の顔。  まずい、これは 「うわーわーうわーわわーーわーわーわーわ!」 「ね、何々?シエル?志貴の秘密?」 「ええ、遠野くんの秘密です」 「わーわーわ!もうそれ以上は堪忍して先輩っ、先輩だけを愛しているからっ!」 「……そう言われるともっと気になるなー、志貴?」  これの顎に掛かったアルクェイドの手が、ぐっと力を増した……様な気がした。  こ、この期に及んで墓穴を掘るとは俺も迂闊な……いや、そんなよりも早く話題を逸ら さないと! 「いやっ、先輩っ、アルクェイドっ、それから先だけはやめてぇぇぇ!」 「あは、まるで手込めにされる女の子のよーに抗うね、志貴は……何を隠しているのかな?」 「遠野くんの肉体関係を持った女性の数です」  ……いっそこのまま気絶しろ、俺。  アルクェイドの目が細くなり、険悪な色が浮かんだような……気がした。  いや、こいつが本気で怒るとうなじがそそけ立つ程の恐怖を覚えるのだけども、まだ怒 ってないの……かな?いや、この体勢で怒られたらさっきの先輩以上に俺は何もできない し。 「ふぅぅぅーーーん」  アルクェイドはそう言って口元を細めてひゅぅ、と口笛を吹いた。  ……いつの間にそんな仕草を身につけたのだろう?俺にもう一度戻されたあいつの顔は 笑っていた……中身も多分笑っているが、その実何を考えて何を言い出すのか分からない。  先輩は言いたいことを言い終えたようで、むっつりと黙って手を離す。 「ねぇ志貴?」 「な、なんだ、アルクェイド……」 「いやねぇシエルは、相変わらず口うるさい陰気な正妻ぶっていて」  くすくすとアルクェイドが笑っているが、この笑いは俺よりも先輩に向けての挑発であ るような気が……案の定かちんときた先輩がもう一度アルクェイドの肩を掴む。 「遠野くんは私の大切な人なんですから、泥棒猫の貴女は口出ししないでくださ……」 「私はね、志貴。志貴が私を他の人と同じくらい、いいえそれ以上に好きでいてくれるの なら何人志貴が女の子と付き合ってても、シエルみたいにうるさく言う気はないよ」  ……この状況下でもそう言ってくれると助かる、アルクェイド。  おれはほっと胸を撫で下ろそうとするが、先輩はこういう金髪のお姫様の後ろで憮然と した顔で吐き捨てる。 「間男と泥棒猫はいつも言うんですよ、仲良く一緒に暮らそうと」 「これだからキリスト教徒はいけ好かないのよ。シエルもフランス生まれならこういうラ ブ・アフェアもラテンらしく愉しめないのは人生損して……」 「吸血鬼に人の生き方を問われたくありません!余計なお世話です!」  あーあ、アルクェイドがちょっかいを出すからとうとう先輩が……いつも先輩はアルク ェイドの前では敵わない。まぁ、実力といいなんといいアルクェイドが圧倒しているから なぁ。  でも、俺の味方のような事を言いながらも――アルクェイドは俺の上に馬乗りになった ままで、俺の顎に指を引っかけていた。  俺を畳の上に押さえ込んで逃がさないように。  ぷりぷり怒る先輩を後目に、目をニンマリと細めて笑うアルクェイド。 「だから安心してね。私は怒らないから……志貴」 「お、おう……」 「だ、か、ら……私とシエル以外に誰と付き合ってるの?」  ――絶体絶命とはこのことか。  俺は息が詰まった。そうだ、やっぱりこんな事を言ってもアルクェイドも知りたがって るんじゃないのか!そりゃ確かにアルクェイドも一番好きな女の子だけども、他の関係が あると知ったらこいつもやっぱり女の子な訳で! 「そーです遠野くん。ちゃっちゃと答えて下さい!」 「それを聞いてどうする気よ、恋の異端審問にも掛ける気?」 「こっちの事情で関係ないです、貴女には。さぁ!」 「そーそー、志貴、怒らないからー」  ……………そんな事言われても 「じゃぁねぇ……志貴の家のメイドさんたちとは関係があるの?」 「翡翠さんと琥珀さんですね、それは」 「頷くか首を横に振るか、それで答えて……志貴?」  ……もうここまで来ると、嘘をつく権利も余裕すら俺には残されていない。  俺は堪忍した。嘘を言ってから半殺しにされて本当のことを喋るよりは、本当のことを 告げて半殺しにされる方が潔い。  潔くてどうなるのか……わからなかった。  俺は頷いた。  先輩の目が眼鏡の向こうで糸のように細くなる。  アルクェイドも俺の顔を見下ろしながら、眉根を寄せる。怒らないと言ったのはやっぱ り嘘だったのか、と呻きたくなる俺。 「……琥珀さんと翡翠ちゃん、どっちなの?」 「両方ですよ、きっと……もう、使用人の女の子で双子に両方とも手を掛けるのは遠野く んらしいというか……ある程度は予期していましたけど」 「へー、そーなの、二人とも可愛いからねぇ……」  うんうん、と頷くアルクェイド。でも、相変わらず手が俺の顔から離れない。  いつもなら冷たく心地よいこいつの指も、今の俺には穏やかではない。 「もしかして……妹とも付き合ってるの?志貴」 「秋葉さんですか、義理の妹だそうですね……秋葉さんも遠野くんは満更じゃなく思って いるみたいですけども、どうなんですか?」  ……Yes。 「えー、志貴ったら妹も手を付けちゃんだ、なんか鬼畜ー」 「吸血鬼に人倫に背を向ける鬼畜呼ばわりされるのは哀しいことですね、遠野くん。そう なると……5人ですか?これ以外にまだ居るんですか?」  ……アキラちゃんとか可愛いと思うけども、さすがにこれ以上は……  俺が首を振ると、むぅ、という声が異口同音に漏れる。 「……志貴ったら本当に何というのか、絶倫ねぇ……私の他に四人とも付き合っていて、 それなのにあんなに激しいだなんて」 「そ、それはアルクェイド、お前が綺麗だから……」 「お世辞でもありがとね、志貴。で、その中で私を一番好きでいてくれるの?」  俺は頷こうと思ったが、アルクェイドの金髪の頭の後ろで剣呑な瞳を浴びせかける先輩 が気になり、どうしても頷き切れなかった。  アルクェイドは小首を傾げるが、その後ろからこほん、と咳払いがする。 「ここまで追いつめられると遠野くんが嘘を言っているとは思えませんね……嘘を言って いたら二人だけだというはずでしょうし。しかし」  先輩は眼鏡の蔓を指で直し、口元を困ったように曲げる。 「……五人ですか。フケツですね、遠野くん。そのライフスタイルを直さないと後々の私 たちの結婚生活に差し障りが……」 「結婚?志貴とシエルが?それって何かの冗談?」 「うーるさいっ!話の腰を折らないでください!この愛人泥棒猫!」 「私の方がシエルよりウェディングドレスは似合う筈よ。志貴もそう思うでしょ?」  二人で喧嘩をしているのか、俺を追求しているのかよく分からない状況だった。  そんな中でも俺はアルクェイドのウェディングドレス姿は綺麗だろうな、と余計なこと を考えて頷き掛けるのだが…… 「とーにかくっ!五股なんて不実で不潔で私は許しません!遠野くん!」 「そうねぇ、せめて私とシエルの二股くらいにしないと……」 「このバカネコの言うことは不本意ですが、今回だけは賛同です」  争っていたのかと思うと途端に意気投合する。  ううむ、これだから女性は与しがたい……などと思うが、先輩の言いたいのは……つま り、俺と秋葉、琥珀さんや翡翠との関係を絶てと言うこと? 「……他の三名はきっと遠野くんと同じ屋根の下に暮らしているから、情に脆い遠野くん がついほだされてしまうのでしょうね」 「あ、それは言えてるかもね。志貴はそーいうのに弱いし、妹も翡翠ちゃんも琥珀さんも 美人だしねぇ、私に及ばなくてもシエルよりは」 「だまらっしゃい。兎に角、遠野くんを再生させるには……」 「ま、待ってくれ、先輩」  俺は慌てて先輩に話しかける。  相変わらずアルクェイドに押し倒されたままで、威厳のないことは限りないが。  それでも俺はこの話の成り行きを黙って聞いていることが出来ずに慌てながら…… 「そんな、俺や秋葉や翡翠との関係をそうとやかく言われても……」 「ほぉ。遠野くん。では遠野くんは女性の五股を掛けるのが正しい姿であると?」 「……違うと思うけども、分からない。先輩もアルクェイドも好きだ」  突然俺がそんな言葉を切り出すと、二人の瞳にほんの少し怯んだような、それでいて喜 びの色が走る。 「だったら志貴ももーすこし……」 「それとは違う意味で、秋葉も琥珀さんも翡翠も放っておけなくて、俺は……ああ、もう、 なんて言ったら分からないけども、俺は決して不埒な思いで付き合って居るんじゃないん だよ」  自分で口にしている、自分の中の真実。  それで居て説得力はない。自分の耳で聞いてもないのだから仕方ない。  アルクェイドはきょとんとしていて、先輩は眉根を寄せて俺を見下ろしていて。 「……だから、その、大目に見てくれないかな……」 「……そう言って引き下がるわけには、今回だけはいかなんですね遠野くん。  今回は幸いか災いか、アルクェイドも協力するという千載一遇の機会ですし……とりあ えず、遠野くんを秋葉さんの元から引き離して私たち二人で交代で」 「交代って言うのは気に入らないけども、それもいいかもね」  アルクェイドがようやく俺の顎から手を離し、うんうんと頷く。  なにか自分の生活がこの二人に占領されるのかと思うと哀しくもいきどろしくもあるが、 先輩とアルクェイドとの一つ屋根の下の生活も悪くはないか、と思い始めていたりもして……  この辺が俺の悪い所なんだろうか?と思い始めていたその時。    バシン!と聞こえよがしに扉が叩きつけられた。  俺が、先輩が、アルクェイドがそちらを向く。  茶道部の部室の扉が弾け飛ぶ様に開いていた。そして、戸口に立つ影。  その長い黒朱の髪を陽炎に舞わせながら。 「――秋葉!!」 「妹?なんで?」 「……これはこれは秋葉さん、一体何の御用ですか?」  三者が三様に、その名前を口にする。  秋葉は戸口に仁王立ちになり、腕を組んで部屋の中を睨んでいた。学校の中だというの にすでに秋葉はウォーミングアップを済ませたかのように、その檻髪を噴き上がる殺気に 舞わせている。そんなぴりぴりした空気に伝染したのか、アルクェイドと先輩も顔色を変 える。  アルクェイドは不快そうに俺の身体の上から退き、腕を組んで立つ。  先輩は取り繕った笑顔で迎えるが、身体は秋葉に反応して構えを取っている。  秋葉はじろり、と俺を睨んでから、ゆっくりと部屋の中に進んでくる。  いつもは行儀正しい秋葉が、玄関で上履きを脱ぎ捨てにするのを見て――このただなら ぬ事態に頭を抱える。 「何の御用ですって、シエルさん。それはこちらの科白ですわ」  秋葉は嘲笑った。手の甲を口元に当てて、はん、と挑発的に――こんな笑いが似合う当 たりが実に秋葉らしいというか。  問題は、今のこの場でそんなデンジャラスな笑いをして貰いたくないと言う兄の思いを 踏みにじられている事であって…… 「人の家の長男を引きずり出しておいて、家から離れて暮らすことを強要するおつもり?」 「盗み聞きとはお上品ではありませんね、秋葉さん」 「そうよ。私が窓から入ってくる前に、そこで聞き耳を立てていたのね、きっと」 「……外までお二人がやり合うのは聞こえましたから。まったく、ここが神聖なる学舎で あることをお忘れですか?アルクェイドさんもシエルさんも」  ……もしそうだとしたら、俺はよほどみっともないな……  でも、この二人、いや三人ならそんな世間体なんか気にしないことは間違いないけども。  三竦みになってようやく俺は体を起こし、学生服の衿を正そうとすると、秋葉がつかつ かと歩み寄ってくる。  びくっ  いや、兄妹ゆえの救いの手なのかも知れないけども、今の俺にはこの不穏な殺気ばかり が気になって。殴られるんじゃないかと思って咄嗟に身構える俺に…… 「帰りましょう、兄さん」 「お、おう……」  手を差し伸べてくる秋葉。だが、俺は秋葉の顔を舌からおそるおそる窺い、その手を取 るのを躊躇う。  だって、秋葉も……この二人は愚か、琥珀さんや翡翠に関係があることをドアの外から 聞いたのだろうから。  俺の瞳に気が付いたのか、朱の髪の秋葉は嗤う。 「あら兄さん。せっかく窮地の兄さんを救って差し上げようと言う妹の思いを無碍にする のですか?」 「そ、そうは言われても……秋葉は……」 「……私は翡翠や琥珀と兄さんが何があろうが、怒りはしませんよ?ただ……」  秋葉は笑顔だった。ただし、零下五〇度の、空気も熱を奪われて凍りだしそうな。  俺は差し出された掌から妖気が漂うような――気がした。 「使用人に手を付けるのであれば主人である兄さんにもっと主である遠野家の長男として の威厳を持っていただきたく思いますし、それにこんな――」  秋葉が流し目を呉れた、アルクェイドとシエル。  二人とも秋葉を訝しげな瞳で眺めている。一触即発の状況だ。 「どこの馬の骨とも知れない女達との関係も清算していただきたいのですけどね。我が家 の長男であれば付き合うべきはもっと折り目の正しい……」 「真祖の王族を捕まえて貴女は馬の骨呼ばわりとはね。ま、シエルは馬の骨だけど」 「馬の骨でも何でも構いませんけども、血の繋がらないとはいえ兄妹相姦は天地人に反し ますよ、秋葉さん。遠野くんを天に恥じない人としての正道を歩かせたいと思わないので すか?」  ……このエスカレーションする三人に、有効な沈静化の手だての無い自分が哀しい。  秋葉は俺を家の中に止めようとして、先輩とアルクェイドは引き離そうとしている。で も二人の一見提携に見えるがその実は非常に危うく、事実上の三つ巴であろう。  俺は畳の上ではらはらと事の成り行きを見守るばかり。  口早に秋葉と俺を腐した先輩の後で、秋葉ははっ、と苛立たしげに掃き捨てる。 「それは遠野の家のこと、あなた方には関係ありません。そんなに近親相姦がいやならば 翡翠や琥珀に兄さんの面倒を見させます!」 「うわー、妹、それもちょっと人倫に反していると思うけどね。兎に角、志貴は」  アルクェイドはするり、とまるで風が揺れるように――  秋葉の目の前で、俺はアルクェイドの腕で引っ張り上げられ、その腕に抱きしめられる。  後ろから抱きしめられ、肩にあいつのびっくりするくらい小さな頭が乗って、お日様の 薫りと柔らかい腕が俺の身体に巻き付いて。 「あー!」 「志貴は私が借りるね、しばらくは。じゃっ!」  俺の身体がいきなり急激な加速度が掛かる――  魂が飛び出るんじゃないのかと思うほどの激しいアルクェイドの飛躍。  俺はそのまま開いた窓から連れ去れて、あっと叫ぶ暇もなく。 「「させるかっ!」」  そして、また急激に逆方向の加速度が掛かる。  俺の手をむんずと秋葉がひっぱり、おまけに真後ろから車でも衝突したかのような衝撃。  秋葉に引っぱられるまま、今度は逆方向に飛ぶ―― 「げぼはっ!」 「ですから兄さんは遠野家のモノです!」  秋葉に腕を取られても、俺はなんとか後ろを振り返る。  俺を連れ去って逃げようとしたアルクェイドは、背中から先輩の蹴りを食らって崩れ落 ちるところだった。その後ろには空手家のように中段蹴りの残心を演じている先輩が。  あ、パンツ見えてる、などと場違いな考えが頭を過ぎる。  だが、そんな先輩が俺を――俺を秋葉を燃えるような瞳で睨む。  身体の方が先に危機を覚え、俺は秋葉の腕を引き返した。 「兄さん、なにを――!!」  秋葉も振り返る。そして、俺と秋葉が見たモノは  片膝ついた先輩が、片手で――畳を返している光景だった。  そそり立つ畳の壁が浮き上がり、くるりと向きを変えてまるで飛ぶかのように  ……いや、実際畳は飛んできた。まっすぐに 「うわああああっ!」 「ふっ!」  カッターのような畳が俺と秋葉の間を引き裂く。  畳にはじき飛ばされた俺は、その畳が飛び、丁度茶道部のドアを塞ぐのが見えた。  ――なんだって先輩はこういうのを武器に使うのが上手いんだか。 「逃がしはしませんよ、アルクェイドも秋葉さんも……」 「……つぅ、私とやる気?シエル……昔のことも忘れて、良い度胸ね」 「……翡翠や琥珀の責任もある私が、むざむざと引き下がると思いまして?」  顔を押さえて俯きながら立ち上がる  仰け反った秋葉も、朱の檻髪を舞わせる。  先輩も眼鏡を仕舞い、拳を一振りする。ケモノの爪のように生える黒鍵。 「わーわーわーわーわー!」  まずい、全員戦闘状態に突入だ。  これだと間にいる俺の命がない、というか校舎全壊でも飽き足らないほどの破壊劇を目 の当たりにすることになるだろう。  俺は手を振り、命知らずにも三人の真ん中に飛び込んだ。  このままやり合われたら…… 「兄さん、退いて下さい」 「邪魔を薙ぎ倒したら連れだして上げるから、志貴は黙って見てて」 「遠野くんの恋人は私なんですよ。だから二人とも大人しく尻尾を巻いて……」 「待てッ、そんな三人で一気に戦う気になるな!」  せめても、この事態を沈静化する手だてを講じないと……無駄かも知れないけども。  俺の顔に、先輩の冷たい瞳が一瞬注がれる。だけども、黒鍵を構えながらも不自然な笑 顔を先輩は浮かべて見せた。 「戦いを止めて欲しいんですか?遠野くん」 「……それはもう。アルクェイドも秋葉も……」 「ならば簡単です。遠野くんが私を選んで他の人と付き合わなければ戦う理由はなくなり ますよ」  先輩は笑って言うが、俺の心の中にはいきなり白木の杭が突き刺さったような。  一瞬にして心臓が止まったような息も出来ない感覚の中で、アルクェイドを見つめる。  朱の瞳を金に移り変わらせる最中のこいつも、一瞬だけその固い表情を和らげる。 「そうね。私と一緒に暮らしてくれるって志貴が言うのならな……」  秋葉を見つめる。秋葉も固い緊張を隠しきれない笑顔で俺を眺める。 「兄さんは遠野家の人間です。遠野家は遠野家に帰する……当然ですわね。」  ――しまった、今更ながら墓穴を掘った。  俺は臍を噛むがもう遅い。そうだ、原因は俺なんだ。むしろ黙ってみていた方が良かっ たかも知れないのに、つい…… 「で、兄さんは誰を選ぶのですか?」 「……まぁ、志貴が選ぶんだったら仕方なくはあるわよね。この場だけは」 「もちろん、選ぶのは決まってますよね、遠野くん……さぁ?」  俺は、茶道部の中で立ち尽くす。  どうすればいい?誰かを選ぶ?誰を選ぶ?誰を選べないから俺はこうなっているわけで、 いまどうこうという結論は……わからない。  わからない。 「えーっと、それは……」  間が悪い、俺の唸り声。  いや、一体どうすればいいモノか……だが俺に選ぶことは……  そうするとやはり、こうしかないのか?  俺は詰まった息を、肩を動かして無理に肺を動かす。  ちらちらを皆の顔色を伺いながら、俺は 「……わかった。先輩もアルクェイドも先輩も。だから」 「だから?」 「……月曜日はアルクェイド、火曜日はシエル先輩、水曜日は秋葉、木曜は琥珀さん、金 曜日は翡翠で土日は休養日ということでひとつ……」  その次の瞬間。  空気が凍り、沸騰し、股凍り付き、嵐が乱れ、また静寂に帰するかのような。  アルクェイドの、先輩の、秋葉の激しい、怒濤のような圧力が――  ひぃぃぃぃぃぃ! 「わかってません!それじゃ何にも変わりないじゃないですか、遠野くん!」 「はぁ、志貴は相変わらず志貴なのねぇ……」 「兄さんはまったく……」  や、やっぱりか……ここまで調子のいいことを言うと、殺されるかも。  俺が頭を抱えていると、ふっと圧迫の一角が欠けてたのが分かる、  俺が顔を向けると、そこには顔を押さえていた掌を外し、にぱっと笑うアルクェイド。 「でも、今まで通りなら私はいいよー。月曜日にたっぷり志貴を愛してあ、げ、る」  投げキッスまで送ってみせる金髪のお姫様。  そんな脳天気な姿に、呆れたようにはぁ、と溜息が流れる。  見ると、秋葉がすーっと墨に染めるように髪の色を漆黒に戻している。 「そうなると週に五日は兄さんは家にいるわけですか。それなら今とはさして変わりませ んし、追々兄さんには生活態度を直していただきます」 「ふ、二人とも何を納得してるんですか!」  地団駄を踏む先輩。  ぐさぐさと黒鍵を突き刺し、先輩は叫ぶ。 「私は納得しません、遠野くんは私の恋人なんです!だから!だから!」 「往生際が悪いわよ、シエル。貴女恋人恋人といってるクセに、志貴が分かってないんだ から」 「うーがーぁーあーあーあ!」                                   《おしまい》    あとがき  どうも、阿羅本です。今回のSSもお楽しみ頂けましたでしょうか?  ……こう、どうも盛り上がりもカタルシスも結論もない日常光景、というSSですが、 どちらかというとシエル絞めの為に書いていたようなSSにも見えますが……いや、実際 目的はそれですし(笑)  しにをさんが「汎用エンドに使われるシエルグッドというのは、シエル寝取られ世界で はないのか?」と仰っていたので、それを実証するために書いてみたら……いや、もう、 余りの哀れさに涙がちょちょぎれます(爆)  先輩、札幌の美味しいカレー、マジックスパイスのカレーを食わせて上げるから泣かな いでー(笑)  というか、この五股ハーレムですがシエル・アルク・琥珀さんは関係があっても秋葉と 翡翠は強引な気がしないでもないのですが、やっぱりあの後に遠野家の謎などに肉薄する とデキちゃうんじゃないのかなー、と……ほ、ほら志貴ですし(笑)  ……週番制も外道のようでありながら、この志貴らしさが滲み出ていると……  なんというのか、難儀なSSですがお読みいただき有り難うございます。  感想などを頂ければ幸いです〜  でわでわ!!   
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