腕に抱く卵
作:しにを
暖かい日差し。
庭先に出した椅子に腰掛けて、秋葉はまどろんでいた。
楽しい夢でも見るのだろうか。
それとも眠りに落ちる前から喜びの中にあったのだろうか。
その目を閉じた顔は、穏かで微かな笑みを浮かべていた。
「秋葉さま……、ああ、こちらでしたか」
秋葉の背後から声がする。
そして、声の主は足早に近づき、秋葉の前に回る。
「あの、……あ、お休みでしたか」
和装の少女はしまったなという顔をする。
後半の声は小さく呟き声になる。
その後姿だけでは、主人が眠りの中にあるのに気づかなかったのだろう。
目を覚まさせてしまったかと危ぶんで、眠れる少女を見つめる。
「ん……、琥珀?」
はたして、秋葉はうっすらと瞳を開き、眠りから醒めた。
そして申し訳無さそうな顔をした目の前の少女を見上げる。
まだ、完全には覚醒していないのだろう。
ぼんやりとした眼差し。
「すみません、秋葉さま。起こしてしまいましたね」
「いいわ。いつの間にかうたた寝していただけだから」
鷹揚な声の響き。
秋葉は特に気にした様子を見せない。
「最近あまりいいお天気でなかったから、少し日にあたっていたの」
「そうですか。それはよろしいですね」
「何か、用だったの?」
「いえ、お姿が見えなかったので、どうなされたのかなと思いまして」
そう、と答えて、秋葉は自分の腹部に手を当てた。
視線もそこへ落ちる。
「まだお腹の中なのに、姿をくらまして皆を心配させるのは昔のままね。
本当に困ったものね、兄さんにも」
ゆっくりと撫でさする。
文句を言っている言葉と裏腹に、その口調は優しく、その表情もまた柔らか
い微笑だった。
暖かく、そして慈愛といってもよい色彩が溶け込んでいる。
「ね、そう思わない、琥珀?」
「そうですね、秋葉さま」
琥珀もまた、笑みを浮かべて秋葉の言葉に賛同する。
少し細めた目が秋葉を、いや何度も大事なものに触れる手付きで撫でられて
いる秋葉の腹部を見つめる。
「志貴さんのご様子はいかがですか、秋葉さま」
「元気よ」
秋葉は答え、「ね?」と己れの腹部に同意を求めた。
「まだお昼まではしばらくあるわね?」
「はい」
「少し中で休もうかしら。まだちょっと眠気が残っているみたい」
「中途半端にお目覚めになられたからかもしれませんね。
では、秋葉さまがお休みの間に、昼食をご用意いたします。
秋葉さまにも志貴さんにも滋養になるようなものを」
琥珀の言葉に、僅かに秋葉の顔に翳りが現れる。
「どうも食が進まなくて。心配かけるわね、琥珀にも」
「いえ、そんな事は。でも志貴さんの為にもなるべく……」
「そうね、今日は気分がいいから。あ、いいわ。一人で戻るから」
秋葉は立ち上がった。
そしてお腹の中の子供に何事か優しく話し掛け、屋敷の中へと戻っていった。
細すぎるほど細い姿。
やつれよりも、はっとするような艶やかさを伴う痩せ方。
それを琥珀はじっと見つめていた。
その笑顔は、いや表情は、能面のように消え失せていた。
「姉さん」
「翡翠ちゃん、どうしたの」
「姉さんの顔が見たくて。今、大丈夫なの?」
「ええ、一時間ほど前に秋葉さまはお休みになられたから、あとしばらくは目
を離していても大丈夫だと思うわ」
ちょっと考えながら琥珀は答えた。
そして、しげしげと妹の姿を眺める。
「だいぶ髪が伸びたわね、翡翠ちゃん。うん、そういうのも似合うわよ」
「そう……」
「顔色もいいし、良くして頂いているみたいね」
「ええ」
短く答えはするものの翡翠の顔は暗く、決して会話を楽しんでいるようには
見えない。
琥珀もそれにすぐに気付き、表情を少し改めて翡翠に対する。
「どうしたの、翡翠ちゃん?」
翡翠はすぐには答えない。
何かを吟味するように黙って姉の顔を眺め、そして諦めたような顔で言葉を
口にした。何かを強く抑えた声で。
「姉さんはいつまでここにいるの?」
「遠野のお屋敷に?
さあ、わからないわ。秋葉さまにお仕えするのがわたしのお仕事だから」
翡翠が小さく溜息を洩らす。
予期していた答え。
そして、そう答えられたら言おうと思っていた言葉を口にした。
「だったら、わたしも姉さんの傍にいる」
「それはダメ」
琥珀はきっぱりと答えた。
「翡翠ちゃんは、志貴さんに仕えるのがお仕事だったでしょ?
ならばもうこのお屋敷には用は無い筈よ。
志貴さんは、もうこの世にいないのだから」
琥珀の言葉に翡翠は、泣き出しそうな顔になる。
「だから、ここにはもう入らせない。
翡翠ちゃんは外で別な生活をして、誰か良い人を見つけて幸せにならないと
いけないんだから」
「姉さん」
門を閉ざす格子をぎゅっと翡翠は掴んだ。
姉との距離を縮めさせず、遠野の屋敷へと入る事を拒む、鉄の格子を。
「姉さん、もういいじゃない。いつまでこんな事続けるの……」
翡翠の頬を涙が伝う。
それを悲しそうに琥珀は見るが、手を伸ばそうとはしない。
「秋葉さまをお一人には出来ないでしょ」
「だったら、秋葉さまも外にお出しすればいいじゃない」
「泣いて暴れて拒まれるもの。様態を見ようとしたお医者様ですら何人も怪我
をさせられたのは、翡翠ちゃんも知っているでしょう?
わたし以外の誰もが秋葉さまに、いえ志貴さまに害をなすと思い込んでいら
っしゃるのだから。
お腹のお子が生まれるまで、絶対に秋葉さまは此処から出ないわ」
「志貴さまのお子……」
低い声で翡翠は呟く。
「ええ、愛する志貴さまの忘れ形見をね。
秋葉さまは、志貴さま自身の生まれ変わりとお思いになられているけど」
微かな琥珀の笑み。
「生まれる訳ないじゃない」
ぽつりとこぼすように翡翠が呟く。
それを聞いても黙って琥珀は笑っている。
「確かに身ごもられていたけど、あれからもう一年以上経っているのよ。
それなのに、お腹なんて全然大きくならないのに、秋葉さま……」
「でも、秋葉さまは、志貴さんとの赤ちゃんが大きくなるのを待っているの。
学校も、遠野家も、ありとあらゆるものを捨てて、ただ志貴さんが生まれる
のを待っているの。
それを見捨てる事は出来ないでしょ」
翡翠の目をまっすぐに見つめる。
しかし、翡翠は否定をしない代わりに、決して賛同の意も示さない。
「でも、孵らぬ卵を温めるのは秋葉さまとわたしだけで充分だから」
きっぱりとした琥珀の言葉。
翡翠は、それ以上何も言わない。
もう何十回と繰り返された事だったから。
「そろそろ戻るわね。
秋葉さまがまたふらふらと出歩かれて、倒れるといけないから」
それで終わりとばかりに琥珀は口を噤む。
「姉さん、なんで姉さんがずっと犠牲にならないといけないの?
姉さん……」
すがるような翡翠の声。
最後は嗚咽が混じり声にならない。
しかし、琥珀は辛そうな顔で翡翠を見つめたまま、佇んでいた。
姉の表情から拒絶以外を引き出せず、翡翠は遠野の屋敷に背を向けた。
それをじっと見守り、完全に視界から消えた時に琥珀は呟いた。
「犠牲じゃないのよ、翡翠ちゃん。
信じられないでしょうけど、わたしね、今とても幸せなのよ。
きっと、秋葉さまにも負けないくらいにね」
平穏な透明な響きの声。
そして琥珀は外への道に背を向け、秋葉の待つ鳥篭へ歩き始めた。
FIN
―――あとがき
ええと、わかり難いですね。
一応『宵待閑話』のさらに後の志貴の死後みたいな時間軸のお話。
暗いですが、ある意味ハートフルっぽいかな、などと思ってみたり。
何故か、 こちら の大崎瑞香さんの『遠野の鬼』を読まれてから
ご照覧頂くと、ダークなお話っぽく思えるかもしれませんが、それは気のせい。
まったくこのお話とは関係はありませんので、念のため。
とは言え、ごめんなさい。
子供が生まれて、我が子に秋葉がというシチュエーションも良いのですが、
こういう京極堂っぽいのも良いかなあとか思ったもので。
本当は「本当に、自然に秋葉さまは流産なされたの?」という台詞入れよう
としましたが止めました。
不可思議な笑みを浮かべて答えない琥珀さんの姿が、嫌過ぎるので。
思いついて即書きなので、粗だらけですけど読まれた方、多謝。
…………でも、本当に直接は関係ないですからね?
by しにを(2002/11/5)
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