深夜の密会

作:しにを



「だいぶいい感じですよ」 「よかった。先生がいいからだね」 「お世辞言っても何も出ませんよ。後は火は止めて余熱で充分でしょう」  琥珀は後ろにいる志貴に声を投げ、オーブンの蓋を閉めると振り返った。  志貴はほっとした顔をしている。 「でもそう難しいものでもないでしょう?」 「うん。まあいちばん簡単なの教えて貰ったからね」 「ふふ。簡単とは言っても凝ろうと思えば味、形、食感とか奥深いですけどね。でも、難 しくないと言ったのは、志貴さんが料理を作る才能があるからですよ」 「ええっ、そうかなあ」  鍋掴みを外して壁につけられた金具に引っ掛けながら、ちょっと考えをまとめる様に琥 珀は言葉を止めて歩く。  志貴もその後に続く。 「感覚と言ってもいいかもしれませんね」 「感覚?」 「はい。料理ってレシピに従ってきちんと材料の量を量って、決められた手順で手を加え て、火を通して……、って具合にやりますから、一見化学実験みたいな処もありますよね」 「そうだね」 「でも、実際には感覚に依存する部分が大きいんです。お鍋一つとってもいろんな種類が あるし、食材も状態や大きさも千差万別ですよね。  加減を見てお塩を、なんて言われてもどれだけ入れればいいのかわからないでしょう?」  少し志貴は考え込む表情をして、それから納得がいったという顔になる。   「なるほどね。考えてみると、少々煮込んでとか、お好みでとか料理の本とか眺めてもア バウトな表現多いよな」 「そうです。料理できる人って、そこら辺はこんなものかなって判断できるんです。もち ろん過去の経験が活きてて無意識に加減してたりもするんですけど、せんじつめると適当、 目分量の世界なんですね。  ところが料理できない人って、その適当がわからないんです。だから杓子定規にレシピ にこだわってお料理をダメにしたり、見当違いな量や火加減にしてしまったり。アレンジ はいいのだけど結果がまったく予想できていなくて、凄い出来ばえになってしまったり」 「なるほどね」  自然と自分付きのメイドの顔が志貴の頭に浮かぶ。 「志貴さんの作業を見てたら、バターを柔らかくしたり粉を溶いたりしながら、ちょっと 牛乳を足してみたりしていたでしょう。これは例えば翡翠ちゃんには出来ない事なんです」  なんだ、琥珀さんも翡翠の事を連想していたのか。  そう思ったが積極的に同意したものか迷って、志貴は曖昧に笑みを浮かべるにとどめた。   「翡翠ちゃんに告げ口しちゃ駄目ですよ。本人も気にしてるんですから」 「承知しています」  ヤカンに水を注ぎ、火を掛けながら琥珀は話題を変えた。  いつの間にか笑顔が消えている。  ちょっと真面目な顔。 「それにしても夜中に逢引きのお誘いなんて、わたしどうしようかと思っちゃいました」 「えっ」  思いもよらぬ言葉に、志貴の顔が色濃く驚愕の一字を刻む。   「普通はそう思いますよ」 「だって、なんで、ええと」 「志貴さん、こうおっしゃったんですよ。消灯時間過ぎに、十一時頃になったら厨房に来 て欲しいって。  おまけに翡翠ちゃんや秋葉さまには見つからないように内緒でねとか囁かれて。  いったい何をおっしゃるんだろう、何をなさるんだろうって、わたしそれはもうどきど きとして……」 「そうか、確かにそう言ったかもしれない」  うかつだった。  確かに、夜に約束してこっそりと男女が二人で会うというのは逢引きとか密会と言って もおかしくはない。  いや、おかしくないどころか普通はそう取るだろう。  まったくそんなつもりがなかった志貴は、少し無神経だったかなという顔をする。 「まあ、本当の要件はだいたい見当はついていましたけど」 「そうなの?」 「ええ。夕方もお勝手の方に出没しては卵とか牛乳とかその他諸々の在庫をご確認なさっ ていたでしょう。それでもしかしたらって」 「そう言えばそうか、ああ、びっくりした」  琥珀の真面目顔は、悪戯っぽい笑顔に変わる。  志貴がこそこそと琥珀のテリトリーで暗躍して、深夜の密会を行っているのは、お菓子 作り、端的に言うとクッキーを焼く為だった。 「わたしとしては、がっかりなんですけど」 「いろんな意味で、ごめんなさい」 「冗談ですよ。気になさらないでくださいな。  でも、ご自分でクッキーを焼かれるなんて素敵ですね。きっと皆さん喜ばれますよ。秋 葉さまとか食べるのがもったいないとかおっしゃりそう。  なまじっかなプレゼントより手作りのクッキーの方が心がこもっていると思います」 「そ、そうかな」  志貴の顔が思いがけない賞賛に目に見えて真っ赤になる。  そんな様子が琥珀には好ましく映る。  ただ、志貴の心情を見抜いていたかは疑問だった。  手作りでという選択は、どちらかと言えば財政的な要因によるものであったから。  バレンタインデーにチョコレートを貰ってささやかな幸福感に浸ったものの、約一月後 の今、志貴は頭を抱える事態に陥っていた。  僅かだと思っていた借金が雪だるまになっていたが如き境遇に気がついた為。  当然ながら貰ったのならお返しをしなければならない。  三倍返しとかの風習には目をつぶるとしても、全員に返した場合、いったい幾らに?  トータルではそれほどでないまでも、何日か昼飯抜きなんて事態になるという事実は、 志貴を蒼ざめさせた。  しばし悩んだ志貴が思いついたのが、お返しに手作りクッキーという解決策だった。  材料を遠野家の食料庫から調達すればば、実費は0、ただ、ロハ。  実際の経験は無いが、作り方はだいたい知っているし、身近に腕の立つ料理人がいる。  問題は、普段あまり立ち入らない厨房で何やら妙な事をやっているのを、秋葉あたりに 見咎められる事だが、夜に作ればばれないだろう。  ああ、なんて素晴らしい。  そんなこんなで夜遅くに志貴は、琥珀に師事してクッキーなど焼いていたのだった。  こんな裏事情を知られたらがっかりされるだろうなあ。  とりあえず琥珀の為にも秘密にしておこうと志貴は心に誓った。 「あ、もう出してもいいですよ」  琥珀の声に志貴は慌てて鍋つかみをはめてオーブンに走り寄る。  蓋を開けるとまだ熱気が漂ってくる。  火傷しないように気をつけて志貴は取り出した。 「あ、けっこう見た目はいい感じ」 「そうですね」 「でもちょっといびつかなあ」 「いえ、これくらい適度に不揃いの方が手作り感があって良いですよ」  一度大皿にあけると、志貴は用意してあった袋を取り出す。   「志貴さん、ひとつ味見させて貰ってもいいですか?」 「あ、どうぞ、いや、ダメです」 「えっ」  手を伸ばした格好で琥珀はぴたりと止まる。  予想外の拒否に驚いた顔をしている。  何か言おうとしかけて、志貴の表情に気づく。  申し訳なさそうな表情と困ったと言っている表情が微妙に混ざっている。  結局琥珀は笑顔を作りながら志貴に背を向けた。 「お茶でも入れますね」    しゅんしゅん音がしているヤカンに琥珀は向かう。    琥珀がお盆に湯呑みを載せて戻った時には、大皿のクッキーは全て消えて代わりに小さ な紙袋が幾つも並んでいた。  秋葉さまに、翡翠ちゃんに、シエルさんに……、志貴さんも大変ですね。  横目で紙袋を眺めながら、琥珀は湯気の立ち上る湯呑みを志貴の前に置く。 「ありがとう」 「いえいえ」  琥珀も腰を下ろし、しばし言葉を交わす。 「だからさ、秋葉ももう少し……」  その時、何処からか時計の鐘の音がした。  12回ポーンポーンという音が響く。 「十二時になりましたね」 「三月十四日」  重々しく志貴は呟く。   志貴は真面目くさった顔をして、後ろ手にしたものを前に出した。  巧妙に琥珀の視線から隠していたそれを、目の前に捧げる。 「琥珀さん、受け取ってくれるかな。この前のお返しなんだけど……」  琥珀は驚いた顔をして、志貴の手に載せられたものを見つめる。  傍らにある口をシールで留めた紙袋とは包装が違う。  薄ピンクのレースで飾られた布で包まれた包み。口は白いリボンで結ばれている。 「さっきは意地悪したみたいでごめんね。  でも十四日に受け取ってもらわないといけなかったから。  まあ、何を作ったのか手の内はわかっちゃっているけどね」  依然、いつもらしからぬ笑みを消した表情で、琥珀は志貴から受け取る。  不思議なものを見ているような目で自分の手に載せられた包みを見つめている。 「開けてもいいですか?」 「もちろんだよ」  琥珀は一度テーブルに包みを置くと、ゆっくりとリボンの結び目を解いた。  まだほのかに温かいクッキーが現れる。  バタークッキー、ココアパウダー入り、細かくした紅茶の葉を混ぜたもの。  琥珀は一つ取ると口に運ぶ。 「うん。美味しい。良いできばえですよ、志貴さん」 「そうか、ほっとしたよ」  いつものような、笑顔で琥珀は感想を述べた。  息を呑んで反応を見守っていた志貴は、安堵の表情を浮かべる。  三種類ともゆっくりと味わってから、大切な宝物を仕舞う様に琥珀は包みを閉じた。  リボンを手にとって結びかけて、動きを止めた。  まじまじとそれを見つめている。 「志貴さん、このリボン……」 「似たのを探してみたんだ。  あの時のは琥珀さんに貰って大事に取ってあるから、代わりにと思って」 「そうですか。……ありがとうございます」 「喜んでくれたなら嬉しいな。お手伝いして貰ったし、琥珀さんに一番最初に渡したかっ たんだ」 「志貴さん……」  しばし見詰め合うが、どちらともなく恥かしそうに目を逸らす。  照れを誤魔化すように志貴は立ち上がった。 「さてと、遅くに付き合ってくれてありがとう、琥珀さん。片付けはしておくから、もう 休んでよ」 「でも……」 「こういうのは弟子のお仕事です。琥珀さん明日の朝も早いでしょ」 「わかりました。では、後始末お願いしますね」 「おやすみなさい、志貴さん」 「おやすみなさい、琥珀さん」  琥珀はいつもとは違う笑顔で、いつものような作り物めいてはいない逆に不自然に見え る笑顔をしていた。  心からの喜びの顔というのに慣れていないが為のぎこちない笑顔。  そういう顔をして、包みを大切そうに抱き締めながら琥珀は私室へ戻っていった。  志貴もまた嬉しそうな笑顔でその後姿を見送る。 「さてと、じゃあ片付けるとするか」  袖を捲り上げると、蛇口を捻る。  ボールやお皿、湯呑みなどが洗われるのを待っている。  そんな三月十四日、ホワイトデーの一日の始まり。 《FIN》 ――あとがき  やっぱりバレンタインデーで書いたら、こっちも書かないとなという安直な動機で書 いてみました。  前回とはダイレクトに繋がっていませんが、別に続編にしても支障ない作りではあり ます。延々と皆に返して回るのもなんなので、琥珀さんに絞ってみました。  いつも狂言回しとか黒幕とかで便利使いしてしまっているので、たまにはこんな琥珀 さん(いわゆる白琥珀ですね)も良いかなと思いまして。  お読みいただいてありがとうございます。    by しにを  (2002/3/13)   
二次創作ページへ