そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.103 言葉考5「放送」 

 
 ラジオ,テレビのアナウンサーも間違った言葉の使い方をすることはある。たいがい気づいてすぐに訂正する。しかし,中には気づかないのか,わざと知らんふりをするのか,そのままのものもある。

「副署長は拳銃を頭で撃って死亡したものと思われます。」
 私はなんの気なしに聞いていたが,「ええっ。」と混乱してしまった。「拳銃で頭を」ならすんなりと意味をとらえることができる。拳銃を「頭に向けて」とか「銃口を頭につけて」などの気持ちがこのアナウンサーにはあったのかもしれない。

「白骨死体が〇〇さんに似ているため,警察では………。」
 誰かに似ている白骨死体なんてどんなのだろうか。もっともこのニュースはローカル版では「白骨死体の特徴が〇〇さんと一致しているため,警察では………。」と変わっていた。どこかからクレームがついたのかもしれない。

 言いまわしやイントネーションなど,気になるものもある。「でーす。」「まーす。」の連発や,いわゆる外来語の平板イントネーションで話しているレポーターも多い。
 気にはなるが時代が変われば言葉も変化する。大昔の言葉はだれも分からないだろうし,百年も前の言葉にも馴染めないだろう。いくらプロのアナウンサーでも,言葉は少しずつ変わっていく。まただれだって間違いもあろう。それをいちいちとがめはしない。少なくとも『言葉』はあるのだから。

 朝の天気予報というのは,その日の予定によってはずいぶん気になる場合がある。教員だったころは遠足や運動会など,天気を気にすることが多かった。そんなとき,テレビの朝の予報はずいぶん役に立つ。気温,降水確率,1日の天気の推移などを天気図,予想図などを示しながら丁寧に知らせてくれる。もちろん画面だけでなく言葉で分かりやすく。
 ところがある局の朝の予報は画面だけである。音声による説明がない。ちょっと目が離せないことがあると予報は分からない。どうして要点だけでも言葉で知らせてくれないのだろう。見れば分かるということなのか。目が不自由な人はどうするのか。

 言葉は,日常生活の中では,音声や文字記号で相手に意味や感情を伝える道具としてその役を果たす。テレビは,画面による情報と音声による情報の二つを兼ね備えている。なぜそれを活用して,できるだけ多くの視聴者に「分かる発信」をしないのか。
 相手のことを考えながら言葉の持つ機能を適切に使っていかなければならない,とあらためて感じているところである。(2002.11.6)