そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.104 文芸の小径 

 
   昔の詩の先輩から12月に浜村で忘年会をするので来ないか,と誘われた。会の前に浜村の「文芸の小径」を散歩するという。そう言えば去年そんな散歩道ができたということを聞いた。文芸の小径は,浜村海岸近くの振興住宅街の中につくられた3・4百メートルあまりの遊歩道で,児童公園などの施設がある所にある。

 北側の入り口から入ると松本穣葉子の句碑があった。穣葉子の紹介文も刻まれている。
〜〜松本穣葉子(本名 儀範) 明治33年(1900)12月13日,浜村に生まれる。大正7年(1918),高浜虚子に師事,「ホトトギス」の同人となる。昭和8年(1933),野口雨情に師事し作詞をはじめ,「貝がら節」のほか,「キナンセ節」「杉音頭」などの民謡詩を作詞する。(以下略)〜〜碑文より

 全部で32の碑があるが,選考基準が分からない。詩は一つだけ,池澤眞一氏のものである。彼は,私の学生時代の先輩で,何冊かの詩集を出し現在も活躍中である。町内の詩人として選ばれて当然だ。碑には次のように刻まれている。
「二枚のいたにはさまれて/進退はままならない//二枚の板を密着させて固定し/あらたにひき割る 〈摺鋸〉 池澤眞一詩集「道具」より」

 駅に近い南側の入り口(こちらの方が正式の入り口,北側は出口)には田中古代子が大きく取り上げられていた。
〜〜田中古代子 1897(明治30)年気高町郡家に生まれる。本名コヨ 若くして同人誌に作品を発表 1921(大正10)年,小説『諦観』が「大阪朝日新聞」懸賞小説第2位に入選。有島武郎に「1位の吉屋信子に勝るとも劣らない」と激賞される。(以下略)〜〜碑文より
 作品は,随想『二種の夢と私の存在』より一部分が碑に刻まれていた。

 日本画家濱田台兒治氏の顕彰碑もあった。これはいいことだ。私はこの人の記念館(美術館)をこの生誕の地につくるべきだと思っている。金は相当かかるかもしれないが,かけるだけの値打ちがあるのではないか。

 文芸を観光材料の一つに,というのは悪いことではない。現在活動中の町内文芸愛好家の作品を集めるのもいいことだ。
 ただ,過去の作家たちのものももっと集めた方がいいのではないか『気高町誌』の文芸の項を見ても,藩政時代の俳人,比良城仙林,三林が上げられているし,明治・大正では毛利眉山,橋本帯雲,中原紫童などが上がっているが小径には見つけることができなかった。
 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)も浜村を訪れて文章を残している(No.94参照)。これからでもいい,これら著名人の句・歌・詩・文も小径に置いてもらいたいものだ。その方が宣伝効果も大きいと思うのだが。    (2002.11.8)