そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.142  少しだけれど 

 
 2月3日は節分,毎年豆まきをする。よく神社の豆まきのことがテレビで出てくるし,学校でもしていたことがあった。もちろんそれほど大掛かりではないし,二人の子どもも県外に出てしまっているから,妻と二人の節分行事である。
「因幡ではヒイラギの葉とたづくり(小いわしの頭)を竹ぐしに刺し,家の各戸口に差し込んだ。また厄おとしと称し,大豆,ヒイラギ,一文銭を紙に包んで辻(つじ)に置き,後を振りむかないで帰る習俗は広く全県にわたって行われた。」(鶴田憲弥著 『鳥取の民俗365日』)
 今は,そこまでしている家は少ないかもしれない。我が家も豆をまくだけである。

 節分の頃になると,いつも思い出すことがある。それは私の姉から聞いた話である。
 大阪で働いていた姉に,節分過ぎた頃1通の手紙がきた。母からのものだった。
「節分の豆を送る。少しだけれど食べておくれ。」
そして,わずかばかりの大豆が同封されていた。ということだった。
 母の心が短い文章と少しの豆にこめられている。今で言えば,「もっとも短くて心のこもった手紙」かもしれない。
 貧しい時代だった。しかし,心は豊かで温かかった。

 今年の豆まきは,勝見の節分行事と我が家の行事の2度行うことになった。勝見地区にとっては正月から火事騒ぎがあったので,厄払いになるかもしれない。
 勝見の豆まきは薬師堂で行われた。実は私はこの行事に出たことがなかった。行ってみると数人の人が集まっていた。そのうち十数人になり,近くのお寺の住職が参上。
「例年の通りお願いします」と電話でお願いしたのは私なのだが。

 お経の後豆まきをする。
「年男,年女があればいっしょに豆まきをしてください。」
 小学5年の男の子が参加してくれた。未年生まれである。20人あまりの参加者に「鬼は外,福は内」。
 財政難,課題の多い勝見に幸いあれ。

 その後今年何回目かの役員会を持った。長引いて夜9時半ごろ帰ったら,妻が「遅いから,豆まきを一人でしてしまった」と言う。確かに遅くなってしまった,そう思いながら豆を食う。年の数ほど食べるのだと聞いたことがある。六十いくつも食べるのか。いや,還暦を過ぎたのだから六十を引いた数でよかろう。

 我が家にしても,今年1年の幸せを願いたい。(2003.2.3)