そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.15 花見

 ソメイヨシノは終わったが,背中あわせの家の枝垂桜がちょうどよい。シートを敷いてご馳走を持ち寄ってご近所数軒で花見としゃれこむ。
 花見と言えばこの間の春休み,長男の所に用事があって東京に出かけたが,空き時間があったので「浅草演芸ホール」で2時間ばかり過ごした。この季節にあった題材ということで取り上げることも多いのか,落語「長屋の花見」も演じていた。何度聞いてもこんな話はおもしろい。「次はこうなる」とわかっていてもいいのだ。ちょうど小さな子どもが,同じ話を寝物語に何度も何度も要求するようなものだ。

 さて,ご近所の花見,ほんの向こう三軒両隣の集まりである。料理といってもありあわせのものの持ち寄り,手作りのご馳走である。特にこの時期は山菜がいい。ワサビやワラビを持ってくる人,我が家では木曜日に採ってきたコゴミやセリやクレソン,もらい物のタラの芽,近くに生えている蕗をその場で天ぷらに揚げて熱々を食べる。道路から離れているので,何を遠慮することもない。わいわいがやがや,それでいい。

『サクラ』花言葉は「精神美」「優れた美人」だとか(「花を贈る事典366日」西良祐著 講談社)。美しいものの代表のようだ。
 花見の習慣は平安時代に始まったようである。それも現在のように桜の下でどんちゃん騒ぎをするようなものではなかった。桜の美しさを愛でながら酒を酌み交わすものであったらしい。

 今年の花見の様子が新聞で報じられた。見出しに曰く。
「ぼんぼり消灯/看板破壊…落花狼藉 悪化の一途,花見マナー」(日本海新聞4月7日付)
 鳥取市のある公園における今年の花見の様子であった。
 これを読んで最近の成人式を思い出す。あの荒れた成人式を。携帯が鳴り私語が飛び交い,どこかの知事が怒鳴ったとか, 式が成り立たなかったとか。
 成人式と花見,同じ土俵で論じることはできないのかもしれない。しかし,そこに共通するものを感じるのは私だけだろうか。
 
 年々の花見は形式かもしれない。形式は大切だが,その意義を理解したりさせたり,そんなときを持つことが大事なのではないか。形式は形骸化する可能性がある。そこに反感や反発が生まれ,時に破壊的な行動も起こる。

 大切なのは花を愛でる心,近隣の人を大切に思う心。ご近所の花見は2時間ほどで終了。また来年,人も桜も元気で。(2002.4.7)