そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.150  作文 

  
 長く子どもたちの作文や詩に関る仕事をしてきた。多くの作文を読んできた。喜んで文章を書く子どもはあまり多くないが,書き上げるとそれでも満足げだ。文集にでも載せようものなら,大喜びだ。そこにはその子らしい生活がにじみ出ている。そのことをほめるとさらにうれしい。
 最近は教師の方が「忙しい,忙しい」と言って書かせない風潮があると聞くが,とんでもない大間違いだと思う。自己表現の下手な子が増えているという現実をどう受け止めているのだろうか。

 昨年度まで鳥取県小学校国語研究会の児童詩文集『あじさい』の編集に関ることが多かったので,既刊47集の多くが手元にある。久しぶりにこれまでのものを調べて見た。
 題材分析をしている「作文総評」はいくつかあったが,32集では15集との比較をしていた。これは役に立つ。筆者は,と見ると妻だった。そうだ,この年は気高郡が編集・発行を受け持っていて,私も詩の総評を書いていたのだ。これは余談。
 
「労働・遊びを含めた自分の生活から題材を求めることが大きく減っています。そして,スポーツ,行事など,学校での生活を題材にしたものは倍増といっていいでしょう。」
「やはり,題材の変化は生活の変化だと思います。ここ十年余りの間に子供達の生活が外から屋内に移ったことは明らかです。同時に作文の題材も,地域社会での活動から,学校や家庭の生活へと移っていったのです。」(『あじさい32集』「作文総評」清水稔子)

 指摘されている点について現在も同じ状況であると言わざるを得ない。いや,「生活科」「総合的な学習」という名のもとに,何か自分でやっている,経験している,体験していると錯覚している,そんな作文も多いような気がする。
 確かに書かせる側から言えば,共通体験を題材にすれば指導がしやすい。しかし,それでは行事作文といっしょではないか。

『あじさい』への応募が近年極端に減少した。私も関係していたころにはたびたびそのことを取り上げてきた。先生方もいろいろ理由を述べる。
「指導の時間がない」……とんでもない。教育課程にきちんと時間は位置付けられている。
「読むのが面倒」…………書くのはもっと面倒。それをさせておいてなんということを。
「評価が難しい」…………一文でもいい,一言でもいい。いいところを見つけてやれば。
「応募なんてとても」……してから言ってください。続けていれば何か反応はあるはず。
「私が分からないから」…じゃあ,子どもに分かるはずがない。分かるように努力したら。
「書くのなんて嫌い」……自分の好き嫌いを押し付けるな。    (2003.2.20)