そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.156  春の散歩道 

 
  天気のよい日曜日,妻と散歩を楽しむ。我が家から少し歩けば田園地帯,少し風は冷たいが,日差しは強く温かい。
「ふきのとうをとりに行こうか。」というと,
「この間行ってみたけどなかったで。」と妻は答える。私は一月半も前にとっている人を見ていたのでその場所に行ってみると,あった。
「こっちの方だったか。」と妻も言いながら,二人で20ばかりの収穫。
「まあ後は今度来る時に残しておこう。」

 ツクシもあちこちに顔を出している。これを食べるには袴を取ったりしなければならず面倒だ。少しだけとってやめた。妻はヨモギを取っている。
「草餅でも搗くかな。」と言うと,
「餅つき器を棚からおろしてかからないけんで。」と妻は言う。
「ああ,そらたいへんだ。やめとこう。」

 紫色の花が咲いている。ムラサキケマンだろうか。なにかちょっと違う感じもするが。
『さんいん自然歳時記』(清末忠人著 富士書店)によると,「ムラサキケマンは有毒だ」との見出しで取り上げてある。また今度の自然観察の会でも出てくるかもしれない。

 ナノハナが咲いている。これはもう山村暮鳥を上げるしかない。
〜〜いちめんのなのはな いちめんのなのはな いちめんのなのはな〜〜
と続く「風景」という詩である。「こういう牧歌性が現代詩の知的立場とちがうところ」だと伊藤信吉は『詩の世界 その享受と鑑賞』(社会思想社 昭和42年発行)の中で述べているが,本当の一面の菜の花を目にすると,知的立場など吹っ飛んでしまう感じになる。
 しかし,今はまだそれほどの菜の花の世界ではない。

 帰り道,タラノキを道縁に見つけた。
「こんな所に……。植えてあるのだろうなあ。」
「でも,あの川土手のは植えたのじゃあなかろう。」土手にもたくさんのタラノキがあった。
 最近は木ごと刈り取ってしまってあとに残すことをしないから,自然の味がどんどんなくなっていく。

 夕食のヨモギとツクシの天ぷらで,酒もうまい。(2003.3.6)