居間のカレンダー(2003年カレンダー「のはらうた」ほてはまたかし版)に工藤直子の「うまれたて」という詩が書かれている。
〜〜 うまれたて あげはゆりこ
おひさまのあいずで/めをさましました/さなぎのゆりかごからとびだし/ゆっ
くりはねをのばしました
(いまだ!)/わたしはかぜのふねにのりました/だいすきなだれかに/であうた
めに/……/あたらしいきょうです/あたらしい「わたし」です! 〜〜
キアゲハの羽化については,このページNo.172でもふれているが,チョウが新しい羽を広げて飛び立とうとする姿はじつに美しい。工藤直子もそんな場面に出会ったのだろう。
今日はニイニイゼミの羽化に出会った。もうかなり大きく葉を広げた向日葵に,羽化したばかりの成虫が抜け殻を抱えるようにしてとまっている。
そして,少しずつ抜け殻から離れて移動して,向日葵の葉柄にとまり,しばらくして行ってみると蝉の姿はなく,殻だけが残っていた。
どこかにいる「だいすきなだれかにであうために」木の幹にしがみついて,「チーイ」とあの独特の声を張り上げているのだろうか。
蝉の幼虫は,地上に落ちて穴を掘り,数年間も地中で暮らす,という。とすると,ここに出てきたニイニイゼミは,初めて21世紀の地上の姿を見たということになる。
SARSは一応の終息を見たが,まだその不安は世界を覆う。そんなこともこの蝉は知らなかった。
イラク戦争はアメリカの一方的な勝利に終わったが,なんとなくおかしな戦争だった。今もそのくすぶりが残っている。そのことも,いや,その前のアフガニスタンでの戦争もこの蝉は知らずに土の中で過ごしていた。そして地上は,まだまだ戦争の火種は尽きることがなく,不景気の中から抜けることもできないのである。
今こうしてここに出てきた蝉は,「ああ,まだこんなつまらないことを続けているのか」と思っているに違いない。
そうだとすると,あの鳴き声は蝉たちの歓喜の歌ではない。嘆きか,あるいは呪いの大合唱なのかも知れない。
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