そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.209  貝がら節祭り 1 

〜何の因果で貝殻漕ぎ習ろうた カワイヤノー カワイヤノー 色は黒うなる身は痩せる
  ヤサホーエヤ ホーエヤエー ヨヤサノサッサ ヤンサノエー ヨヤサノサッサ〜
 今でこそ全国的にもよく知られている貝殻節は,山陰沖に発生した帆立貝を獲る漁をした漁師たちが歌った労働歌が元になっていることはよく知られている。

「日本海沿岸の賀露,浜村,泊,妻波などに伝わる代表的な民謡。数十年ごとに沿岸一帯に大発生する帆立貝を底引きする漁師たちが,苦しい艪漕ぎに合わせて歌った労働歌で,男性的な勇壮さと家族を思う切々の哀調がある。この伝承民謡の起源はさだかでないが,帆立貝の乾し身が1824年(文政7)に中国へ大量輸出されたのを始め,以後1929年(昭和4)にかけて数十年ごとに周期的な輸出が文献に見られるところから,漁獲もそれ以前からあったであろうし,唄もそのころから歌い継がれたものであろう。」 (『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社)

 貝殻節は浜村だけで歌われてきたものではない。「浜村沖から貝殻が招く〜〜」というところを,青谷では「青谷沖から」と歌い,賀露では「賀露の沖から」,泊では「泊沖から」と歌う。広く鳥取県沖で行われた帆立貝漁の労働歌であることがわかる。土地によって歌詞やメロディーに少しずつの違いがあり,賀露で歌われている貝殻節を「正調貝殻節」と言うこともあるが,そうかもしれない,いや,「賀露流貝殻節」なのかもしれない。
「浜村貝殻節」は,昭和8年(1933)浜村温泉をPRするためレコードに吹き込まれ,全国に売り出されたものだ。そのころ全国的に,音頭や小唄を作りラジオで流し,レコードに吹き込むことが流行していた。たとえば「三朝小唄」は,昭和2年(1927)に野口雨情の作詞,中山晋平の作曲によって生まれたものだし,「皆生小唄」は,昭和11年(1936)に野口雨情の作詞,松田稔の作曲(現在のものは佐香博美作曲)によって生まれたものである。

 ただ温泉があるというだけで,他になんのとりえもない浜村温泉としては,なんとかこれを宣伝材料にしたいと考えたようだ。しかし,この唄が爆発的に全国に広まったのは,昭和27年(1952)朝日放送全国民謡大会で第1位になったことである。その後も全国芸能大会などでたびたび披露され,海の労働民謡としてすっかり定着した。
 貝殻節踊りも昭和8年ごろには振り付けがなされたというが,戦争による中断で忘れられ,再振り付けがなされたのは昭和22年という。男踊りも昭和初め頃からあったというが詳細はわからない。衣装のカスリ模様と色彩は,画家中島菜刀が描いたもので,今に伝えている。(正條村誌発刊委員会編『正條村誌』鈴木一弘氏の文章より要約)

 私の住む浜村では,かなり古くから七夕祭りを8月6日から7日,つまり月おくれで行っていた。それが駅前付近を中心とする地区行事になり,花火や芸能も行われるようになったのは,観光地の宣伝と結びつけたからだろうか。それを見に行った記憶もそう古いものではない。
 町の記録を見ると,「七夕祭り」が「貝がら節祭り」に変わったのは昭和46年(1971)8月である。民謡「貝がら節」を前面に出していっそう観光の色を濃くしてきた。さらに8月の第1土曜日に行うこととし,前日に近くの船磯漁港付近で花火大会などを開く。祭りが2日間の行事になった。

 今年の貝がら節祭りは8月1・2日に行われた。(以下次回に続く)