そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.244  千鳥遺稿

『千鳥遺稿』は平成10年4月気高町教育委員会と気高町文化協会の手によって復刻版が発行された。さらにその再版が15年4月に発行されている。
 遺稿集によると,田中千鳥は「大正6(1917)年3月生,同13(1924)年8月没」とある。僅か7才5ヶ月という短い生涯である。

 千鳥の母田中古代子は,明治30 (1897) 年逢坂村(現気高町)郡家に生まれた。大正4(1915)年山陰日日新聞社に入社,県下初の婦人記者となった。文芸誌『我等』の同人となり,新聞・雑誌に多くの作品を発表。大正10(1921)年「諦観」が『大阪朝日新聞』の懸賞小説に2等当選。その後も執筆活動を続け若き女流作家として期待されたが,神経痛と不眠症のため床に伏すことが多くなり,昭和10年(1935)年自ら命を絶つ。38才。

 古代子の名前と作品は一部の文芸愛好家や研究者の間には脈々と伝えられていたが,再び世の中に出てくるのには50年以上のときを経ている。『気高町誌』は昭和52(1977)年に発行されているが,古代子のことは出てこない。『鳥取県大百科事典』(新日本海新聞社)は昭和59(1984)年の発行で,「涌島古代子(再婚後の姓)」として竹内道夫氏の記述がある。同じ年古代子の50回忌が開かれ,『鳥取文芸』が特集を組んだことから,次第にあきらかになってきたのであろう。

 古代子の作品については,またふれる機会を持つ。ここでは千鳥の作品を読んで見たい。
『千鳥遺稿』は,先ほど述べたような古代子の作品を見なおす中で確認された。千鳥が亡くなったのが8月18日,『遺稿』の編纂後記の日付が25日となっているので,ずいぶん早い編纂作業だったようである。
 千鳥6才から8才で亡くなるまでの作品の内容は,「自由詩,作文,日記,手紙,お話」に分かれている。幼い彼女の,自然を見る目は確かである。

 キノハノ ヲチタ/カキノキニ/オツキサマガ/ナリマシタ(實りましたの意)
                        大正十一年十一月(六歳)
 「ナミ」
 ビヨウキノアサ/ハヤク メガサメテミレバ/ナミノオトガ/シヅカニシヅカニ/キコ
 エテクル                   (七歳)十月
 「雨と木のは」
 こぼれるやうな/雨がふる/木のは と雨が/なんだかはなしを/するやうだ/山もた
 んぼも雨ばかり/びつしよりぬれて/うれしそう  (八歳)四月
 「カワイイコヒ」
 雨のふる日に/とつてきたこひを/たべるのが/かわいさうで/かわいさうで/たまら
 ない                     (八歳)四月

 金子みすゞのような目も感じる作品ではないか。今回は僅かな作品にしかふれることができなかったが,今後読み深めて発表の機会を持ちたい。