そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.252  大学時代の同窓会

 1960年,安保闘争の嵐が吹き荒れていた年の4月,私は鳥取大学に入学した。県外の大学に入学するほどの能力はなかったし,お金もなかった。試験がだめだったら,就職でも探すしかないな,と思っていた。
 そのころ鳥取大学学芸学部(現地域教育科学部)は,鳥取市立川町にあった。旧鳥取連隊の兵舎を学舎として使っていた。まさにおんぼろ校舎であった。昭和35年まだ戦後15年しかたっていない当時とすれば,やむを得ない状況だったのかもしれない。

 授業はほとんど講義形式で,先生は自分のノートを読み上げて終わっていた。外国語や日本古典などは,読み・解く作業もあっておもしろいこともあるが,どうも外国語は苦手だった。中学校の英語に問題があったのかもしれない。音楽や図工関係は実習があったが,初めてさわるピアノなど弾けるはずもなかった。それでもなんとか1曲マスターすると単位がもらえた。

 文芸部に所属していて部室で過ごすことが多かった。「馬小屋」と称する暗い部屋(コンクリート床,板壁の長屋の1室,窓が1箇所,裸電球が1つ)には,授業のない部員が集まってしゃべっていた。冬は火鉢を囲んで過ごした。私は汽車通学で早く行くことが多かったので,炭火を熾して他の部員が来るのを待った。おかげで火焚きはうまくなった。職について,子どもたちとキャンプをしても僅かな焚き付けで薪に火をつけることができた。

 そんな学生時代の40年前の思い出を米子の皆生温泉の同窓会で話し合った。同窓生は六十数人いるが,集まったのは19人だった。定年退職しても再就職している人もあり,日曜日・月曜日の泊りがけでは出席できない人もあったようだ。
 物故会員は3名。住所が空欄の人が5名あった。音信不通の人である。文芸部員だったM君とIさんも音信不通となっていた。

 なんとか都合をやりくりして集まった会員は,飲み,食べ,話し,夜遅くまで過ごした。
 参加できなかった多くの会員からも近況が届いていた。
「当日法要がありまして出席することができません」
「姪の結婚式のため参加できません」
「先日,中学の同窓会のために帰鳥したところですので,今回は見合わせます」
「今年こそは,絶対と思っていましたのに……老々介護の毎日で」
「母の体調が急に悪くなることがあって,いつでも病院に行けるようにしておかないと」
「私は体のあちこちが悪く参加することができません」
「妻の体の調子があまり芳しくなく,自分が家事の面でもいろいろとやっているところ」

 40年前の仲間たちと語り合う時間を持ちたい。そんな気持ちが切々と伝わってくる。