私を詩人と言ってくれるのは,あんたぐらいなもんだよ。」
と言いながらも私の訪問を受け入れてくれた。彼は養護学校の現職の校長で,年齢では私の後輩である。
私が彼を最初の訪問者にしたのには,いくつかの訳がある。その一つに現在も脈々と続けられている詩誌『菱』(1968年創刊)を始めたきっかけが,私と彼との話し合いの産物であったという,30年以上もの思い出を共有していることがあげられる。私は創刊後数年で詩から遠のいてしまったが,彼はつい最近まで作品を寄せていた。
もっと以前の学生時代,文芸部の機関誌や詩誌の作品について論じ合っていた思い出もある。彼は日本文学,外国文学にも精通していて,なぜかアルゼンチンタンゴにも詳しかった。私たちは何人かの仲間で,タンゴを聴かせてくれる喫茶店で何時間も過ごした。
「国語の時間の初めに,短冊黒板に短歌や俳句,短詩や詩の一部を書いて読み,覚えさせ,話をする。生徒には感じるものがあったようで,なかなか人気がよかった。」
教員にも「日報」「週報」という形で現在も出し続けていると言う。その中のいくつかをコピーして持ってきた。花や,自然に関する記述も多い。
「詩などの短い言葉の中に込められているものを子供たちは,理解という段階を越えて感じ取り,覚えるということによって自分のものにしているのでしょう。」
私も,3月まで実施していた「詩の暗唱」「詩の授業」の経験を話す。
「その覚えたものは決して消えない。あるとき,何かの条件が一致したとき,その言葉がふっと浮かんだり口をついて出たりする。」
彼の情熱的な口調は変わらない。『日々の言の葉』というノートには,短歌や俳句,詩が書かれ,解説と感想がびっしりと述べられていた。
彼には『あいかけの村』(詩誌「菱」の会発行 1987年)という1冊の詩集がある。その話をすると,
「退職までにもう1冊まとめたいと思っている。」
彼ならやるだろう。校長職の忙しさの間を縫って,近いうちにその作業が進められそうな気がする。
『菱』の仲間たちの現況など話し合って1時間余,近日中の再会を約束して養護学校を辞した。 (2002.5.2) |