そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.303  4月は

 十日ばかり春休みを勝手に作って過ごした。「またどこか出かけたんですか」と,誰かに尋ねられそうだが,今回はほんとの休み。教員生活が長いと春,夏,冬,春と季節毎の休みがほしくなる。そして,4月がなんとなく年初めのような感じになる。まあそんなわけでこれからもよろしく。

  四月は残酷きわまる月だ
  リラの花を死んだ土から生み出し
  追憶に欲情をかきまぜたり
  春の雨で鈍重な草根をふるい起こすのだ。
               (T・S・エリオット「荒地」より 上田保訳)

 1881年生まれのイギリスの詩人T・S・エリオットの「荒地」は,第1次世界大戦後のヨーロッパの荒廃をイメージして構成したものだという。
「エリオットも街角で知人に出遇ったとき,『昨年君が植えたあの死骸から芽が出はじめたかい? 今年は花が咲くかな?』とこの『荒地』のなかで問いかけています。しかし,死者の屍からどんな文明の芽が出はじめ,どんな文明の花が咲くかは,ヨーロッパ文明の過去の伝統を見守り,絶望しながらうごめく人間たちの会話や,遊戯や,ビジネスや,伝説や,迷信を注意深く視察しなければならない,とエリオットはこの『荒地』で主張しているようにおもわれます。」(飯塚書店『詩の教室V 外国の現代詩と詩人』より)

 日本の詩人にとっての荒地は,第2次世界大戦後の日本のイメージである。
「戦後」と言っても,もう今の若い人たちには通じない言葉なのかもしれない。60年近くの年月が過ぎ,戦前の人よりも戦後の人の方が多くなった。1941年生まれの私はいったいどっちに属するのか,わからないけれど。
 しかし,戦前であろうと戦後だろうと,「荒地的状況」は今もずっと続いているのではないか。いや,ますます荒れてきているのかも知れない。

 街角に続く多くの議論。心に通う水がない。
 あきらかに水不足だ,とわめいてみても,口角泡も飛ばない。埃が舞うだけ。
 スクランブル交差点。人は四六時中行き交っていたが,なんの会話も見当たらなかった。
 携帯電話を持つ手の波波波。伝える言葉もない。
 並んで歩いている恋人たちのまなざしは平行線のまま,交わることはない。
 流行という名の制服を身にまとう人々。

 そんな今年の4月,我が家のライラックはポツリと小さな芽を育んで,冷たい春の雨の中でいくつかの花芽を持ち,さくら吹雪の中をツバメが飛んだ。
 畑で草取り,川べりで若菜摘む。頬を切る風が冷たい。

 この4月,まだ捨てたものでもないか。