そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.308  今年の祭り

 宝永元年(1704)のことであった。池田藩の分家である松平壱岐守という殿様が勝見温泉に保養にこられ,一時のたわむれで薬師堂のワニグチを的にして矢をいられた。ところが翌年殿様が参勤交代で江戸へ行かれたとき熱病にとりつかれ,薬のきき目もなく衰弱されるばかりであった。ある夜金色に輝く仏が壱岐守のまくらもとに立って「わたしは勝見の薬師だが,仏を粗末にするからこんなことになるのです。信仰心を深くし,善政をしくと約束されるのならあなたの苦しみをとりのぞきましょう。」といって姿をけしてしまった。松平家では謝罪として薬師堂へ定紋入りの金燈籠二個と,毎年灯明料として米二斗四升を寄進することにした。殿様はまもなく元気になられたとある。

 勝見の温泉が,各所で薬師如来のお告げによって湧いて出てきたということもあった。その一つ新湯にまつわる由来がある。享保14年(1729)7月22日の夜,夢中に青衣を着た冠人がやって来て,ふだんからお薬師さんの信心のあつかったこの家の主人与三右衛門に「汝に一つの宝をあげよう」といって,「ここを掘ってみろ」といって消えてしまった。与三右衛門は,夜の明けるのを待って,つまといっしょに冠人のおしえたところを二尺程掘ると,突然湯が出て来た。
 豆腐屋の和助の家では,少しばかり湯が出ていて,使い湯としていた。和助はなんとか入浴できる湯がほしかったが,大きな岩があってそれ以上掘り下げられなかった。そうした矢先「ここを掘り下げれば湯が出る」という薬師さんのお告げが夢の中であった。和助は驚いていろいろな人に相談した結果掘ってみることにした。早速石屋を呼んで2尺程打ち進むと,熱い湯がこんこんと湧いて出た。

 享保元年(1716)勝見に疫病が流行して,多くの老若男女が死亡することがあった。そこで村人が長泉寺の住僧(二世柳明和尚)に頼んで薬師如来に病気平癒を祈願してもらった。その数日後疫病は雲霧が貼れるようによくなっていった。

 薬師祭りは,村人が薬師如来の霊験のあらたかさに感じて願開の為,薬師如来の法施として享保9年(1724)から始められた。従って薬師祭りの趣旨は,村人の薬師如来への衆病悉除,温湯守護等の報恩感謝の表現であった。

 この文章は,昭和58年12月10日発行「長泉寺だより」第41号より一部抜粋したものである。
 今年の祭りにも役員として関ることになった。関係者合同の打ち合わせ,買い物,集金,餅搗き,幟立てなど昨年よりもさらに忙しい。でも,今年は我が家の来客の相手はきちんとしよう。それができないようでは気持ちのよい祭りにならない。