そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.311  追悼K先生

 ほんとうに残念なことだった。逢坂小学校でいっしょに仕事をしたK先生が亡くなった。42才の若さだった。

 私か逢坂小学校に校長として赴任し,K先生には5年生を担任していただいた。その学年はみんなで8人の小さな学級だった。男子3人,女子5人ともなかなか個性豊かな子達ばかりで,いい学級として育っていた。
 私か校長として勤めた学校は3校あるが,どの学校でも子どもたちに「詩の暗唱」の課題を出した。毎月課題の詩を決めて覚えるように言い,校長室で暗唱を聞くことにしていた。小さい学年の子は競争のようにして覚え,校長室にやって来た。しかし,大きい5・6年生の子達は,恥ずかしさもあるのかあまりやって来ないことが多い。ところが,この学級の子達は毎月のようにやって来た。もちろんそこにはK先生の陰の指導があったに違いない。明るく,きびきびとした指導をしておられた。音楽の指導もとてもよかった。

 新しい指導要領が実施される前のことで,「総合的学習」の取組みが各校でなされた。5年生は,「出動! 逢坂グリーンレンジャー」と称して環境問題に取組んだ。マルチ再生紙の田植えを経験させたり,紙作りを授業に持ち込んだりした。
 学習発表会でも5年生は「出動! 逢坂グリーンレンジャー」について発表したし,先生が持ちあがった6年生では,逢坂の農業の歴史について調べたことを発表した。この発表は校区の人達,多少でも歴史を知っている人達の感動を呼んだ。

 全校で国語の研究をすることになって,K先生は宮沢賢治について授業をしてみたいと言ってきた。子どもたちに作品を通してディスカッションをさせたい,ということだった。これはかなり高度な授業で,子どもたちに力がついていなければ難しいかもしれない,と私は思ったが,「やってみよう」とゴーサインを出した。
 結果は子どもたちの意見がなかなか出ず,先生にはずいぶん苦しい思いをかけることになってしまったが,それはそれで他の先生にも大きな勉強になったのではないかと思っている。昨年,この学校で開かれた郡の研究会で宮沢賢治についての学習を,5・6年生合同で行っていたことの素地を,2年前に既に作っていたのである。

 K先生の転勤はその子達が卒業と同時になった。先生は地元に近い学校に帰ることになった。私はその年退職を迎えていた。
 その夏の終わり,私は親戚の病気見舞いの病院で,手術を終えたK先生に会った。偶然だった。手術後とはいえ,明るい声で話しておられた。
「無理をしてはいけません。年内休んだ方がいいですよ。」
 私は強く勧めた。しかし,年が明けて転移再発の報。その後病状は悪化の一途をたどったらしい。
 ある日,「メールアドレスを変えました」とのメールが入った。病院でもメールが見えるようにされたらしかった。
 そして,帰らぬ人となった。お通夜に,いっしょに勤めていた先生方数名と参列した。読経がすんで,なんだか小さくなった先生の顔にお別れをした。
 この文章の最後は私にも分からない。おそらくいろいろな思い出が次々と出てきて,終われないような気がする。だからこの辺りで……。
 ご冥福をお祈りします。