そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.32 /種子から種子まで

 プリムラが種取りの時期を迎えた。私が学校で二十年も作り続けてきたのはプリムラ・マラコイデス,200から300もの苗を仕上げたものだった。プランターや鉢に植えたものは卒業式や入学式を飾った。

栽培が簡単なので,子どもたちにも指導して作らせたり,学級にも割り当てて卒業式までの管理をお願いしたりする。こんな時,担任の植物に対する気持ちというのが実によく分かる。
同じように見ているはずなのに,どうしてこんなにも差が出るのだろうか。冬休みがすむと,その差が歴然と現れるのだった。片や青々と葉を茂らせ,多くの蕾の中にいくつかの花を見ているのに対し,もう一方の学級のものは完全に枯れ果ててしまっている。水をもらえなかったのだ。毎日見ていたはずなのに,なぜ。植物の生育に水が必要だと言うことは知っているはずなのに,なぜ。
担任が室内の植物について普通に気を遣っていれば,植物に何が必要かは考えられるだろうし,長期の休みにはどうすればよいかを考えるであろう。
普段からの気遣いのなさが,こんなところに表れる。それは植物に対してだけではないかもしれない。

私はプリムラの栽培を指導するとき,「種子から種子まで」を基本にする。つまり,種蒔きから種取りまでが一連の栽培であるということだ。
「プリムラはいつ蒔くのですか」と聞かれることがよくある。「6月ですよ」と答えると,「そんなに早いのですか」と言う。採種が5月ごろだから一年間の栽培になるところに,やはり意味があると思う。

総合的な学習が入ってきて,小学校では農業体験を取り入れるところも多い。米作り,サツマイモ,ジャガイモ,トウモロコシ,野菜などさまざまであるが,土に親しむことはもともとの日本の基本産業である農業にふれることでもあり,大変よいことだと思っている。

ただ,気になるのは,少し面倒な作業を子どもにさせないことだ。「田植え,稲刈り,食べる」それだけが米作りではなかろう。米作りには八十八の手間暇がかかると言いながら。子どもの能力から考えて難しいことや,安全や健康に関わることであれば,それも仕方ないかと思う。また,これまで時間数の関係で,省かなければならないことが多かったことも認めよう。しかし,時間数が保障できる今,一連の作業にはできるだけ関わらせなければなるまい。
暑い中での草取りも,土に汚れることも,肥料を手にしその臭いをかぐことも,すべてが農業である。また,どの一つを除いても農業は成り立たない。

だから種蒔きから種取りまで,一つの作物のサイクルを教えることは大切なのだ。
どんな生命にも決まったサイクルがあること。そのサイクルのポイントに手を添えていくこと。それがまた新しいサイクルにつながること。それが物を作るということなんだから。
種子から種子まで,芋から芋まで。多くの学習がそこでなされるような気がする。
                                                (2002.5.14)