そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.352  町誌編纂室にて2

 編纂室がおかれて4ヶ月近くになる。委員の中で原稿書きが進んでいるHさんは,しょっちゅうここを訪ねてきては,新しい原稿を私に預け,前の原稿を私がパソコンに入力しプリントアウトしたものを持ち帰る。また,それに目を通して校正の朱を入れて持ってくる。1日に2度やってこられることもある。
 他の委員もそれほど頻繁ではないが,,資料探しや写真のフィルムを持ってこられたりである。

 市民図書館のNさんという人が見えた。編纂室を訪ねてこられたようには見えないが,教育委員会事務局に人がいなかったため,私が相手をすることになった。
「田中ちどりの名前は,漢字で書くのでしょうか,片仮名でしょうか。」
 田中古代子のことを調べているという。古代子の娘ちどりのことである。私もはっきり知らなかったので,『遺稿集』を見る。習字の写真に「千鳥」と漢字が使ってあったので,
「自分で書いていますから漢字でしょうねえ。」
と言うと,
「そうなんです。ところが後書きなどに古代子が書いているのは『チドリ』なんです。お墓も見てきたのですが,やはり片仮名。どうも分からないのです。」
 その他にも謎がいっぱいあって,調べているところだという。いやあ,そんな詳しいことは私も知らない。というところに教育長がひょっこり顔を出して,Nさんと私を教育長室に招じ入れた。
「そのことについては,市立図書館から調べてほしいという申し入れがあり,今調査中です。もうすぐ回答できると思います。新しい事実が出てくるかもしれません。」
 お墓の写真や古代子の年譜などを見ながらいろいろ話をして,結局は教育長の回答で今日のところは終わり。「町内のお寺や墓石をこれから調べてみます」と言ってNさんは出ていった。町誌の内容(文化・芸術)にも若干かかわることになるかもしれない。

 月1回編纂委員会を開催している。それぞれの委員から執筆の進行状況を報告してもらったり,問題点を出してみんなで協議したりする。原稿執筆については,できれば10月いっぱいを目標に,遅くとも12月には仕上げたいと言うことだが,半分以上の原稿ができた人から,まだほとんどかかっていないという人までずいぶん差がある。
 私自身いくつかの原稿を受け持たねばならなくなってしまった。特に明治・大正時代の通史は,私があまり知らない部分である。全国的な大きな流れは中学校や高校で勉強した記憶はあるが,郷土の歴史は分からない。
 さらに少しずつ調べていくうちに,最も大事にしたい気高町の資料が非常に少ないことに気がついた。52年発行の『気高町誌』にもほとんど見当たらない。さて,どうしたらいいのだろう。8月いっぱいで大体のめどをつけたいのだが……。

 7月の編纂委員会のあと,暑気払ということで,近くの飲み屋の2階でみんなで一杯やる。生ビールで乾杯はよかったが,この暑いのに鍋料理には参った。しゃぶしゃぶの肉はうまいが,エアコンが間に合わない。おまけに電気の容量オーバーでブレーカーが落ちたのか停電。室温は31℃まで上がっている。すごい暑気払である。