そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.382  さくら姫物語


 鹿野町のふるさとミュージカルは,第18回を数える。今まで見ようかな,と思ったことが何度かあったが,なぜかチャンスを失っていた。中でも「さくら姫物語」は,何度か上演されている。このたびやっと観るチャンスを得た。
 鹿野町で伝える「さくら姫物語」と,気高町で伝えるものとでは多少違うかも知れないが気高町に伝えるものは以下の通りである。

 桜姫物語 昔,気多郡の殿村にきの紀うじさと氏郷という長者が住んでいた。その一人娘にたいへん美しく気立てのよい桜姫がいた。学問にすぐれていたが,何より姫の心をとらえたのは御仏の道だった。嫁にほしいと言い寄る人が多かったが一向に聞き入れなかった。
 ある時,姫は父の氏郷に従って都に上がった。村上天皇の第六皇子勝見親王の嫁選びがあり,選ばれたのが桜姫だった。桜姫は縁談には耳を貸さず,因幡国へ帰ってしまった。
 親王はそれを聞き,桜姫を慕って殿村へと旅立った。ところが気多郡の宿まで来た時は長旅で疲れ果てていた。近くの家を借りて休んだが,病気は重くなるばかりだった。うわさはいつしか氏郷にも知らされた。氏郷の父大納言氏常入道は大いに驚き供の者を従え御輿を持って迎えに小坂を越えた。親王は喜び御輿に乗り,小坂の峠にたどり着き,御輿から下りて路ばたで休んだが,急に病気が重くなり,手当てのかいなく亡くなった(この坂道は今も神越坂とか御輿坂と称し,そのあたりを神子谷という)。天延三年(975)6月21日のことである。その後3年を経て貞元2年9月,勝宿宝聖宮として祀られた。桜姫は他の男たちの求婚も断り,ますます信仰の道に入り,ぜひ観音様のお姿を拝したいものと一心であった。ある日,祈っていると一条の光がさし,それを頼りに鹿野の桜谷に行くと,大きな桜の木の下に観音様がほほ笑み,手招きしておられた。すると,観音様は,「姫よ。よく私を見なさい。この私の姿を心にとめて,仏像を作り,世の中の人びとに拝ませてください」と言って見えなくなった。桜姫は,切り倒した桜の大木に観世音菩薩像を彫りはじめ,99日かけて彫り上げた。そして,せむいざん施無畏山観世音寺という寺を建て,自ら刻んだ仏像を本尊として安置した(この寺は数百年を経て,領主亀井武蔵守茲矩が鹿野城下に移転させ,現在,紺屋町にある)。桜姫は観音様に仕え,また困った人びとの世話も熱心にした。しかし,桜姫もこの世の命が終わり,近郷の里人たちは母を失った子どものように嘆き悲しんだという。(『勝見名跡誌』より)

 今回「さくら姫物語」は,この物語に沿った形で展開されていた。キャストはすべて地元の人たちであり,わたしの知っている顔もたくさんいた。まさに「ふるさとミュージカル」と自慢してもよかろう。会場が公民館の体育館ということで,音響効果などに若干無理な面が見られた。それにしても満員の観客を満足させるよい出来であった。