そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.39 /入院雑記7 立つこと・歩くこと

 コルセットが出来上がって,少しばかり自由が許され,身の回りのことが少しはできるようになる。ベッドに釘付けになっているということがいかにつらいものか,経験した者でないと分からないかもしれない。
 前回は,コルセットの型から連想した兵馬傭のことを書いたが,今回は「立つこと・歩くこと」について考えてみよう。

 人類はなぜ立ち上がり,歩行するようになったのだろうか。移動ということで考えれば,這っていてもいいし,樹上生活で木から木へと渡ってもいいわけだ。きっとその方が動きは速いと思うし,逃げるとか追っかける,物をとるなどの目的を満たすのにも都合がいいのではないかと思う。

 では,立ち上がり,歩いたのはなぜだったのか。それは,視野の広がりだったのではなかろうか。立つことによって人間の目の位置は,1〜1.5メートルくらいしか上がらないのだが,視野の広がりは実に大きなものがある。私はそのことにベッドで寝たきり生活をしてみて気がついた。

 このことは,食うか食われるかの暮らしをしていた類人猿たちにとって,たいへんな「情報の広がり」となった。それは第二次大戦のレーダー,現在の人工衛星ほどではないにしても,彼らにとっては大変な世界観の転換だったのではなかろうか。見る目が広がったのである。
 しかも,それは立ったまま移動することによってさらに大きくなった。視点が立体的になることによって,目標の位置もより正確に捉えられるようになったのだった。

 ところで,彼らがそのことによって得たものは,戦闘的なことだとか餌を捜すこととかいう,生死に直接結びつくことばかりではなかった,と私は思うのだがどうだろう。
 つまり,遠くを手をかざして眺めたり,あっちこっちと動いてみたりしながら,「ああ,きれいな森がある」とか「いい星空だ」とか感じたのじゃあなかろうか,と思うのだ。美意識の芽生えだ。

……と,ここまで書いたところで主治医の先生がこられた。
「どーお,清水さん,変わったことありませんね。月曜日にはコルセットができるからね。歩く練習 しっかりしてね。」
「はーい。」
 月曜日から私は,歩くために歩く。
                            (2002.5.26)
         * 記述内容と日付が違っていることがあります。ご了解ください。