そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.398  坂田方外

 今年,というより私たち役員最後の事業だった薬師堂の改修工事が終わって,その記念式典を行った。勝見薬師堂が勝見の財産なのかどうか意見の分かれるところではある。しかし,何百年かの歴史を持ち,町の文化財として指定されている建物なり仏像・仏がんをなんとか維持しなければならないという気持ちから,寄付集めをし,ぎりぎりのところでの最低の手当てをしたものであった。

 石垣は確かに三百年の歴史を持つのかもしれない。しかし,建物は継ぎ足し・継ぎはぎ,いつ,どんな工事がなされたかわからない。この薬師堂のお守りをお願いしている寺の住職によれば「仏がんにその謂れ・年代が書いてある」というが,私自身その文字を実際には見たことがないので,真実はまだ納得できない。ただし,室内に書き残されている文字に,文政年間(1818〜)のものも確認しているので,まだ百年以上の開きはあるもののそれがかなり信憑性のある数字だとは思っている。

 この度の改修工事を含む建立三百年記念工事記念式のしおりを作るように頼まれて,一つ思いついたことがあった。新町誌執筆のために資料として借りている坂田方外の『勝見今昔長夜乃伽』にある「明治時代ごろの勝見薬師堂」の絵(写真)だった。

 坂田方外(1889〜1956)は本名好治(よしじ),勝見の文化人であった。私は今ちょうど町誌編纂にかかわっていて,町誌に載る彼の人物像に触れている。
 私が執筆している(明治・大正)部分にも関係があるので,彼の自宅を訪れて資料もお借りした。その中に『勝見今昔長夜乃伽』があった。今改修を進めている勝見薬師堂の絵もその中にあった。

 もちろん,無断で使うわけにはいかないので,区長を通して家族にお願いすると,「方外も喜ぶと思います」との返事。表紙には現在改修のなった薬師堂の写真を載せ,裏面に明治のころの方外の絵を載せる。この絵は多分,方外が昭和20年代に昔の薬師堂を思い出しながら描いたものであろう。

 式典の中で簡単に説明をする。後の記念会食の中でもかなりの反響があった。そのものが始まったころ(薬師堂が立てられた頃・三百年以上前)と現在,それをつなぐ一枚の絵。そこに連綿とつながる人々の心が感じられるのではないか。
 私の試みはまずまずよかったかな,とちょっと一安心する。
 これで2年間の役員としての主な仕事がようやく終わった。