そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.407  人物誌

『町誌』の中の「人物誌」は町内の著名人を取り上げるところである。私も3人受け持っ
ている。1人は明治から大正にかけて砂丘を開拓した高田亀三郎氏。この人は縁者もどこ
かわからず、顔写真さえない。しかし、業績はいろいろなところに書き残されているから、
そこから引っ張ってくることにする。顔写真はなかったが、私の父の書いた肖像画(ペンが
きのもの)が出てきたので、それを使うことにした。

 木下六蔵氏は明治から昭和の人。県水産業界の重鎮だった人で、近年まで縁者も近くに
いたということで2・3人にきいてみるがはっきりしないので、これもいくつかの資料か
らまとめてみることにする。
 この人も写真が手に入らない。「鳥取県大百科事典」(新日本海新聞社編)にはいい写真も載っているのにどこにあるのだろう。そう思いながらあたっていると、「ああ、それなら」と家が近くだった人を紹介してくれた。近々訪ねてみようと思っている。

 小泉恵氏は、元鳥取大学の音楽の教授。実は私も習ったことがある。始めて向かうピアノの弾き方の手ほどきをしてもらった。とても引けるという状態ではなかったが、ありがたい単位ももらった。何とか教職につけたのもこの先生のおかげといえるのかもしれない。家族もおられるので、ある程度資料がまとまったら訪ねてみようと考えていた。

 作曲も手がけていた先生は、多くの校歌を作っている。その範囲は広く鳥取県ばかりか兵庫県にも及んでいる。「校歌集」という本が依然勤めていた学校にあったのを思い出して借りてきた。校歌を作曲してきた先生の気持ちや略歴などの基礎知識はそれで得られた。「鳥取砂丘叙情」という組曲の名前を聞いて思い出した。この歌は、私が大学1年のときに発表されたもので、私たち1年生もステージで歌ったのだ。
 その話を同級生にすると、
「ああ、覚えている。〜砂丘とは浮かべるものにあらずして〜というのだった。」
とひとしきり話が弾んだ。

 近所の人にもその人柄などを聞いてみて一応の資料が整ったので、家族に話しを聞かせてくださいと申し出る。日曜日、長男の雄介さんから先生の思い出を聞くことができた。校歌の手書きの楽譜もたくさん見せてもらった。「鳥取砂丘叙情」の楽譜もあった。写真も借りることができた。2月17日から鳥取のわらべ館で「鳥取ゆかりの音楽家たちパート2」という特別展があるという。見に行こう。