そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.462  町誌編纂の中の発見1・気多郡長

 町誌の編纂に携わりながら、わずかな発見でもあるとうれしいものだ。私が特に調べているのは明治から大正期にかけてで、資料といっても目新しいものは少なく、「発見」などということはめったにない。それでもたまにそんな機会に出会うことがある。
初代気多郡長・梶川弥平については、県立公文書館に行ったことがきっかけだった。展示物の中に彼の郡長辞令書があったのだ。

 明治9年(1876)8月から同14年(1881)9月まで鳥取県が島根県に併合された時期がある。鳥取県の郡制度はこの併合時代に開始されたことになる。明治12年(1879)1月、出雲・石見・因幡・伯耆・隠岐の5国からなる島根県に、郡区・郡役所が定められ、22名の郡長が任命された。その内、鳥取県域には次の9郡治分画がなされ、郡役所が置かれた。
 日野郡―2部宿、会見郡―米子町、汗入郡8橋郡―8橋郡赤碕宿、久米郡河村郡―久米郡倉吉町、気多郡―勝見村、高草郡―吉岡村、8上郡智頭郡―智頭郡用瀬宿、8東郡―安井宿、邑美法美岩井郡―邑美郡堀端町(「島根県甲号御改革及事務章程」)

 これで見ると、気多郡と高草郡それぞれに郡役所がおかれ、郡長が任命されたはずである。ところが、高草の郡長梶川正温ははっきりしているのに、気多の郡長は分からなかった。というより、梶川正温が兼務していたのではないか、ということになっていたのである。
 私が目を向けたのは、気多郡長という言葉、明治12年鳥取県が島根県に併合されている時代のものであるという点であった。
 公文書館の担当のI先生に尋ねてみる。
「間違いなく気多郡の郡長です。これまで県史でも気高町誌でも分かっていませんでした。新しい町誌を作られるのでしたら、特に気高町誌にはぜひ取り上げてほしいと思います。」

 明治13年(1880)11月20日、郡の統廃合により気多・高草が合併するまでの1年10カ月余りという短い期間ではあったが、気多郡(平成16年11月合併までの気高郡域)に郡長が任命され、勝見に役所が置かれた。その初代郡長には梶川弥平が任命された。
 梶川は八上郡高津原(現河原町)野庄屋出身で、県役人のほか35区、37区の副戸長を務めた記録はあるが、それ以外のことは、生没年、履歴等詳細は不明という。この初期郡長9名(現鳥取県関係)の内6名が士族、梶川を含めて3名が平民であった。初期郡長の任用には、その「在地性」よりも、「限られた士族集団」=「郡県の武士」層の「受け皿」としての機能が最優先されたとされる中にあって、極めて異例の人事だったといえるのかもしれない。

これは決して私の発見だったわけではない。しかし、気高町・気高郡の歴史を考える上で、決して見逃してはならないことなのではないか。気高郡はその当時から郡としてのまとまりを持って近代の歩みを進めていたのだ。