そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.467  はだしのゲン

演劇鑑賞会7月例会は「はだしのゲン」(木山事務所公演)であった。原爆を扱った漫画「はだしのゲン」を演劇にしたものである。私は漫画を読んでいないが,ビデオになったものを見た。

鳥取県でも中部地区では,修学旅行の見学地として広島方面を選ぶことが多かった。私が勤めた学校でも「広島・宮島」が定番だった。校長は修学旅行の引率責任者だから,当然行くことになっている。桜小学校の修学旅行には,3年間続けて広島を訪れた。
修学旅行の事前学習として見学地についてさまざまな学習をする。「はだしのゲン」のビデオ学習は旅行出発してからのバスの中であった。かなり生々しい映像もあって,私自身「ちょっと子どもが受け止めるものとしてはえらい(思い,苦しい)かなあ」と思ったものである。

しかし,その内容を「重く受け止めた子どもたち」もあれば,「そんなに感じない子どもたち」もいて,それぞれに学習を深めることができたと思っている。その後行った原爆資料館の見学にしても,30分もかからずに出てくる子もあれば,時間いっぱいでも足りない子もあるといった具合で,実に学習に個人差があった。語り部の話にしても,重く受け止める子もあれば,その段階ではまだ十分には分からない子も多かった。
学習は,一時のものではない。事前の段階,時中(こんな言葉があるかどうか知りません)の段階,事後の段階それぞれにあり,さらにもっと続き,ひょっとすると生涯続くのかもしれない。

さて,演劇鑑賞会の「はだしのゲン」,漫画の演劇化というのはなかなか難しいのかな,と思う。読み物としての漫画なら,「絵」によって表現できる画面がある。ビデオなどの映像もそうである。ところが,演劇はいくらメークされていても人物は人物である。もしそれを作りすぎるとすれば,かえって滑稽な姿を作ってしまうことになる。
今回の演劇漫画が,決して下手だったというのではなくとても面白くしすばらかったのだが,そこに何か難しい壁があるような気がしてならなかった。
去年鹿野で観た朗読劇「この子たちの夏」(地人会 木村光一構成・演出)を思い出していた。山口果林などの朗読もすばらしかったが,こんな内容にぴったりした表現形式をよく考え出していることに,改めて感心させられたのである。

広島の夏が今年も近づいている。60年の月日が経過した。世界のあちらこちらの国々で核兵器の威嚇がちらついている。
なぜなのか。
人類は馬鹿なことを繰り返して結局滅亡の道を選ぶような気がしてならない。