そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.479  貝がら節祭り

 今年の貝がら節祭りも盛大に行われた。以前に書いたような気もするが,この祭りは浜村地区で行われていた七夕行事が元になっている。
 この辺りでは七夕の行事を月遅れで行っていた。8月6日に各家庭では竹に飾りをつけて家の前に立て,供え物をする。短冊に願いごとを書く,などということをしたかどうかは覚えていない。そんなならわしは後でくっついたもののような気がする。7日の朝にはその竹の飾りを海岸までもって行き,海に流した。家から海岸まで朝の砂丘の2キロばかりの道をてくてく歩いて,竹飾りを流しに行くのは子どもの仕事であった。それは正月のトンドさんや盆の仏送りにも似て,頭や胸に描いた願いや思いを,空や水に送る行事であったとも言えよう。

 この家庭の七夕行事を「七夕祭り」として町の行事にするようになったのはいつのころからだろう。町を見下ろす浜村砂丘から花火を見ていたのはいつのことだったのか。砂丘には屋外ステージがあって,芸能発表をしていた。
 私の母は駅前で店をしていて,この祭りの時は客が多くて花火も見ることもできずに手伝いをしていたこともあった。

 気高町の50年年表を見ると,昭和30年(昭和の大合併によって気高町ができた年)には駅前に観光歓迎アーチが完成したとある。気高町が観光に力を入れだしたことがわかる。先ほどの屋外ステージのことは36年に完成したとあるから,その頃にはこの祭りもかなり賑やかに町を上げて行っていたのだろう。
 この祭りが「貝がら節祭り」と名前を変えるのは昭和46年(1971)のことである。町民や職場にも貝がら節踊りへの参加を呼びかけた。住民参加型の祭りへと変わってきたことがわかる。ということは,今年は35回めになるのかな。

 今年は班長をしているので人に出ろ出ろばかりも言っていられない。「しかたないかなあ」といいながら妻が出場した。私は今年はカメラマン。
 時間になったので出かけると,勝見のシンボル(春祭りの屋台をこの祭り用にアレンジして出場している)はまだ動いていない。何をしているんだろうと思いながら駅前に着いて,しばらくすると貝がら節踊りが始まった。

 勝見連はなかなか現れない。最後の連ごろになってやっと登場。
 役員に聞くと,屋台がパンクしていて修理が間に合わず,遅れてしまったとのこと。なんということだ。と人のことを言ってもいられない。私のカメラも5枚ほど写すと充電池が空っぽになってしまった。夜景モードで写していたからだろうか。あるいはスイッチを押したままになっていたのだろうか。残念,しっかり写そうと思っていたのに。