言葉について考えた。
「ことばというものは生き物で,生き物である以上,変るなというほうが無理な注文であって,時代的変化のすべてを『日本語の乱れだ』ときめつけるのはナンセンスである。正常な言語感覚をさかなでするようなとっぴな新造語にしても,少々耳障りな語法にしても,それが自然発生的に生れたものであれば,はたからとやかくいってもはじまらない。」
と,江國滋さんは『日本語八ツ当り』 (新潮社)の中で言っているが,人と話していて,テレビで話される言葉を聞いていて,ずいぶん気になることがある。江國さんでなくともひとこと言いたくなる。
「テレビの公開番組で,スタジオをうずめた若い女性たちが,いっせいに『エーッ』と声をそろえて発するあの声は,いったいなんだろう。」(同上)
江國さんが取り上げたこのテレビ番組は,『日本語八ツ当り』が出されて十数年経つがますます盛んに続いているし,「花の女子大生がロンパールームなみの稚さで叫びたてるあの声」(同上)も毎日登場しているのである。
だから,言葉についてどうこう言ってもどうにもなるものではないのかもしれない。
しかし,気になることは言っておいた方がいい。ここでは,「親」を取り上げよう。
子どもたちに言葉づかい,敬語などの指導をするとき,「家族を第三者に言うとき,『お父さん』『お母さん』はいけません。『父』『母』と言います」と教えてきた。
ところが,このごろの子どもたちはそのどちらも使わない。「親」と言うのである。いや,子どもたちだけではない。若者,さらにもう少し年齢の進んだところまでそう呼ぶ。これはいったいどういうことなのか。
父,母のどちらかに限定せず,少しぼかして答えているのか。「親」なるものが親権を行使していることに若干の反発をこめているのか。
いずれにしても私は,この使い方からは親しみや温かさを感じない。「お父さん」「お母さん」は幼稚であるにしてもかわいらしさを感じ,「父」「母」には自分との関係を明らかにする近親感を持つ,「おやじ」「おふくろ」は温かさや暖かさを感じるのだが,「親」にはそれらがない。なんとなく突き放された感じしかないのだ。
最初にも書いたように言葉は変化する。もちろん語感も変わり,人によって受け取りようはさまざまかもしれない。でも,私はなんとなく抵抗を感じているのである。
(2002.6.16) 【写真は三世代交流グランドゴルフ大会・本文とは関係ありません】 |