そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.490  選挙

 総選挙真っ最中の今,これについて郵政がどうの年金がこうのということは,私にはわか
らないし,論ずることはできない。
 私が書こうとしているのは古い明治のころの選挙の話である。このページでも書いたことがあった。

〜〜第4連合戸長 山根壽
 山根は姉泊の人である。資料を見ると、明治8年ごろから姫路学校、勝見学校に勤務しており、気多郡第5学区の学務委員もしている。明治14年の島根県時代には、八束水(やつかみ)村の戸長も務めている。教員といえば、読み書きはもちろん、一般的な知識もあり、政治の上でも十分やっていけるものと認識されていたのであろう。鳥取県から島根県へ、そしてまた鳥取県へ、複雑な山陰の地方政治の最中、全国に先がけてスタートした連合戸長制、さまざまな困難もあったと思われる。そのあたりの具体的なものが出てくれば最高なのだが。
 公文書館のIさんに資料の裏づけを頼む。さらに2・3の資料について「新たな発見」と思われるものがあるが、もう少し調査を進めたい。(空の山通信No.463)〜〜

 公文書館を訪ねると早速調べてくださっていた。選挙の記録があるという。
その綴りを読む。山根寿は確かに八束水(現在の鳥取市気高町船磯・姫路・姉泊)の戸長(村長)を勤めている。選挙でもトップの得票であった。「選挙でも」という言い方はおかしい。「選挙でトップなら当然じゃないの」と思う。
 しかし,明治の初めごろそれは「当然」ではなかった。「選挙綴り」には気多郡第4連合戸長の選挙結果も書かれている。得票3票以上の名前がなんと18名,ずらりと並んでいる。その中で山根寿は第4位だったのである。その山根が連合戸長になっているのはなぜ?

 当時の選挙はあくまで参考資料。選挙の結果を見て,郡長(当時の気多・高草郡長は梶川正温)が「この人がよかろう」と県令(県知事・当時山田信道)に具申する。そして県令の任命により戸長が決定した。
 もちろん選挙の結果,人気の低い人を選ぶことは難しかったかもしれない。しかし,ある程度の得票があれば,上に立つ人が使いやすい人を選ぶことは普通に行われたのではなかろうか。山根は学校の勤めだけでなく,土木方面にも詳しかったらしい。大水による災害が各地に見られる明治中後期,また,道路開鑿を進めた国・県政にとって,山根寿は格好の人物だったのかもしれない。

 今行われている総選挙。問題点は上げられているが,なんだかはっきりしない。結局のところ〈選挙の結果を見て〉誰かに利用されてしまいそうな気がしてならない。