空の山通信  清水行人


No.5 暖冬

 
正月に少し雪が降ったが,珍しいくらいに暖かい冬だ。エルニーニョ現象のためだ,などと報じられているが,果たして。まだこれから迎える2月,どんな気候になるのか分からない。

 と,ここまで書いたのが1月28日。翌29日に朝起きたら一面の銀世界。鳥取の冬はそんなに甘くない。29日は1日中断続的に降って平地で20pの積雪になった。

 私が教職についたのは,鳥取県八頭郡郡家町の兵庫県との県境の山村であった。昭和39年4月,考えてみると38豪雪の翌年である。バスは通っていた。しかし,道路の横を見て驚いた。人の背丈ほどもある白い壁が道路を囲んでいるのだった。

 その学校では分校勤務であった。同じ鳥取県に住む私は雪を珍しいとは思っていなかったが,その降り方には驚かされた。一晩に1メートルくらい降ることもあった。時には屋根の雪下ろしをしなければならなかった。「スコップいっぱいくらい積もったらおろした方がいい」と,地元の人は言っていた。家には雪囲いもしていた。家が押しつぶされるのを防ぐためであった。

 もっとも,私の小学生時代には,結構降っていたような気がする。同じ学校の子どもが,雪ずりの下になってあわや,というような事故があった記憶もあるが,定かでない。戦後間もない頃のことで,遊び道具もなかった。スキーもそりも手作りだった。竹を火であぶってそりをつけ,スキーや橇を作った。もちろん今のようなスピードの出るものではなかったが,子どもの楽しみくらいにはなった。今の子どもたちは,立派な遊び道具を買ってもらって,それに使われているのかもしれない。

 分校に勤務した私は,スキー一式を買った。近くのスキー場(と言っても,ちょっと高い山から斜面を滑るだけ)で滑るためであった。大した滑りができるわけでもなかったが,子どもたちと楽しむ時間は持てた。しかし,うまく滑るほどにはならなかった。今のように技術的なことを教えてもらうこともなかったし,そんな資格を持つ必要もなかった。

 2月は雪の深い季節だった。しかし,急に晴れ間の見えることもあった。そんな朝は冷え切っていて,凍っていた。積もっている雪は表面が凍っていて,地元の人は「チャリコ」と言っていた。凍った状態が,「チャリチャリ」していることなのだろう。そして,それは春の近いことを教えるサインでもあった。

 雪解けは春の風から本格的になる。村は過疎化が進んでいると言う。教え子の何人かとは今も年賀状のやり取りがあり,同窓会をするから出席を,と案内がある。もちろん出かけて,一献酌み交わしながら,思い出話にふける。