そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.505  アサガオ・草取り・秋仕事

  図書館に植えたアサガオがもう終わりになって,見苦しくなっている。
「植えた者が責任を持って後始末をするか。」
と,妻と二人で取り掛かる。支柱に結びつけたナイロン紐を切り取り,支柱とアサガオを抜き取って片付ける。数十株(百株くらいあるかも)のアサガオだから,そう簡単ではない。
 図書館の隣はアパートになっていて,きれいに草取りをしているところもあれば何もしてないところもある。こちらだけを片付けてもちっともきれいになったように見えない。アサガオだけ片付けてもしょうがない。草取りも同時進行とする。

 開館時間になって職員もやってくる。利用者もだんだんにやってくる。
「すみません。」「ありがとうございます。」
「いえいえ,どういたしまして。」
 1・2年生と思われる小学生がやってきた。
「ぼくもしましょうか。」
「おう,それはうれしいね。そこの草をかためといてくれる?」
「はあい。」

 妻が知っている子どもかと思って後で聞いたら「知らんけど…」という返事。
「秋休み」という私には耳慣れない休みの期間で,図書館を訪れたところらしかった。学校3学期制が2学期制に改められて,夏休みが5日間ほど短縮された分を学期の区切りに持ってきている休みらしい。
それにしても,ちょっと私たちを見かけて手伝いをしようかという気持ちはうれしい。

「ボランティア」がどこでも使われるようになって,場合によっては間違った考え方があるような気がする。ボランティアに頼るなどということはおかしいと思うし,ボランティアが代価を考えるということも間違っている。特にボランティアが一つの組織となったときそんな現象が起こりがちだ。
 ボランティアはあくまでボランティア。奉仕と感謝によって成り立っていると思う。

 仕事は予定を少しオーバーして2時間近くもかかってしまった。後はごみ(アサガオと支柱,雑草)の始末。市のごみ処理袋を図書館からもらって詰め込む。大袋で3杯になった。
「我ながらなかなかよくやったな」と思いながら新しい本を借りて帰る。

「アサガオは手がかかるから来年はコスモスにしようか」「それがいいかも」,こんな自由な考えができるのも,勝手にボランティアのいいところかな。