そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.543  長尾坂

 山陰自動車道が,去年の暮れ青谷から長尾をくぐって気高町姫路までつながった。
 長尾坂は国道9号の中でも有名な交通の難所である。勾配が8パーセントと急坂であり,カーブも多い。

 資料を調べてみると明治16年に国道工事が始まっている。このときできた長尾坂は現
在「旧国道」といわれている道路で,魚見台付近から南西に入り,青谷小学校北側に抜ける自然の地形を利用したに起伏の大きい道路であった。
 明治18年を目標として人道から車道への工事が始まった。しかし,鳥取―米子間の場
合は,伯耆街道(米子往来)を中心に,16年1月から20年11月までかかり,費用は8万1762円だった。工事前の道幅は狭く,特に浜村―泊間は荷車の通れない所が多かった。

 明治18年,広げられた道路は第25国道(東京より島根県まで)に指定され,大正8年旧道路法の成立により,18号線に改称された(その後9号と改称)。さらに昭和27年の新道路法による改修で新しい路線が完成したのは昭和42年のことである。
 また,舗装工事が行われたのは昭和35年5月から翌36年3月までである。それまでは砂利道だったということだ。私が子どものときも旧国道(浜村温泉街から鶴木坂を通って姫路に出て,船磯から長尾坂を上る)は砂利道だった。そんな狭い(今から考えれば)道を,バスがガタガタと走っていたと記憶する。

 山陰自動車道は,長尾にトンネルを開け気高と青谷を結ぶものである。この構想はずいぶん前からあった。山陰本線は初めから長尾トンネルを計画し完成させている。
 この工事もたいへんだったらしい。青谷(長尾),姫路(116.67メートル),八束水(191.11メートル)の三隧道のうち青谷隧道は山陰西線の中で第3位(975.67メートル)と長い。その上,掘り進んで行くうちに次第に岩盤が硬くなり,1日の工程は東西両口を合わせてわずか1メートル以下。隧道内の2か所から大量の湧き水が出る,工事中の事故で亡くなる人もあった。日露戦争の開始により工事を中断,やっと明治39年1月に貫通した。もう一つ,八束水隧道を出たところの姉泊から新田までの間は,築堤(盛り土)のため地盤の弱さから沈下が見られ,路線用地外が隆起し,自然安定を待つしかなかった。やっと浜村駅まで線路が延びたのは予定より421日遅れの明治39年(1906)12月のことである(今年は鉄道開通100年なのだ)。

 そんなこんなに思いを馳せながら,新しくできた山陰道のトンネルをくぐる。雪の日に「長尾は大丈夫かいなあ」などと悩むこともなくなった。確かに便利で速くなった。しかし,それによって失われるものもあるだろう。次第に寂れる地域もあるだろう。思いはあれこれと揺れる。