そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.57 金子みすゞの世界 

 映画『みすゞ』上映会が鳥取県民文化会館で行われたので鑑賞に出かけた。7月4・5日2日間にわたり4回上映ということだったので,平日の午後の時間,そんなに見る人もなかろうと思っていたが,ざっと200人くらいも入っているのにちょっと驚いた。ほとんどが年配の女性だったが,おそらく夜の上映にはもっと多くの人が入るだろう。
 金子みすゞの「私と小鳥と鈴と」は小学校の国語の教科書にも出ていて,来年が生誕百年に当たることもあって,ちょっとしたブームになっている。「金子みすゞファン」というのもあるのかもしれない。

 昨年5月の連休に私は山口のこの地を訪れた。山口・湯田の中原中也記念館と金子みすゞの仙崎が目的であった。(写真はそのときに撮ったもの)湯田はそれまでにも何度か訪れていたが,仙崎まで足を延ばすことはなかった。
 この後の全校朝会で私は次のような話(要約)をしている。
 
〜〜 5月に仙崎に行ってきましたが,仙崎駅が「みすゞ館」という建物になっていて,駅前通りはそのころの町並みが「みすゞ通り」と名付けられて再現されていました。この間テレビでみすゞの生涯をドラマ化した『明るい方へ 明るい方へ』を放映していましたが,見た人はありませんか。私が行ったときにも古い看板などをテレビカメラに納めているカメラマンたちがいましたから,ドラマに使われたのかも知れません。

 金子みすゞは,1930年26歳の若さでで亡くなるまで,不幸な人生を送りました。童謡詩人としてデビューして作品を発表したのはわずかに5年,「童謡詩人の巨星」とまで言われたのですが,十分に認められるまでにはなりませんでした。亡くなってから50年経って,書き残した500編もの詩が発見され,その存在が認められることになります。常に相手のことを思い,自然を,弱いものを一生懸命見つめている優しい,それでいて鋭い目を,今の私たちにはなくなってしまった大切なものを持っていたのではないかと思います。〜〜
 
 今日映画を見てあらためて思う。みすゞに詩を書かせていた力ってなんだろうか,と。それは詩人としての感性,ふつふつとわいてくる詩の心,そんなものだったのだろうか。そこからは,自殺という行為からは考えられない強ささえ感じるのである。彼女は生まれつきの詩人だったのかもしれない。帰宅して手元にあるいくつかのみすゞの詩を読み返してみたのだった。   (2002.7.6)