そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.70 宿題 

 
  すぐにしなければならなかったのに
  あそびほうけてときだけがこんなにたってしまった
              ―― 辻征夫 「宿題」より ――

 夏休みも後1週間で終わる。多くの子どもたちがこんな気持ちでいるのではなかろうか。私が子どものころのことは忘れてしまったが,息子たちの夏休み終盤のことはよく覚えている。また,宿題を出す側だったから,子どもたちの宿題に対する取り組み方のさまざまも十分に見てきた。

 今は少なくなったと思うが,「書き取り」というのがあった。毎日ノート〇ページ(あるいは字数を指定して)漢字練習をする,というものである。子どもたちはやさしい漢字を選んでノートを埋めたり,まず1画目ばかり並べて書き,次に2画目ばかりをつけていく,などという工夫をするのだった。それによって漢字を覚えさせようという教師側の意図は完全に無視された。計算練習なども同様であった。

 絵日記,日記も定番だった。1年生の時には,親も一生懸命書かせるのだが,だんだんと親の目も手も入らなくなって,休みも残り数日になってから1か月間を思い出せといってもそれは無理なことであった。
 絵の宿題もよくある。これには提出される作品にずいぶん差がある。ちょいちょいと描いたものと丹念に描き上げたものとの差ということもあるが,中には夏休みの絵だけがうまい子,というのもあった。理由はお分かりだろう。

「夏の友」という問題集を使うようになったのはいつのころからだろう。ほとんどの教科について問題・課題がまとめてあるので,教師にとっては考えたり作ったりする手間が省けるということから多くの学校で採用された。しかし,最近では学校や教師の工夫がない,と使わないところも増えている。子ども達からは「夏のかたき」という声もあったりした。
「自由研究」という名のもとに何か研究に取り組ませることも多かった。息子達の研究にはかなりアイデアを与えたり手伝ったりもしたものだ。私がいい研究になったな,とでき上がったものを見ていても,担任からはあまり認められないこともあって,先生はちゃんと見たのだろうかなどと思ったこともあった。

 多分今年も何らかの宿題が子ども達に出され,今多くの子どもたちが遊びも水泳も止めて最後のあがきをしていることだろう。先生方は休みが終わった後その処理に苦しむことになる。いつの時代もそんなことの繰り返しだ。  (2002.8.25.)