そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.76 蝗(イナゴ) 

 
 稲刈りが進んでいる。今年も何度か日本付近は台風に襲われたが,鳥取県に大きな被害を与えたものはなかった。稲もいいできのようだ。
「最近はイナゴが少なくなりました」戦中戦後を知る人がそんなことをいうことがある。

 ふと幼い頃を思い出したのは,一面に広がる稲穂の中を横一列に並んで手に手に自家製の捕虫網を持ち,先生の号令一下,舞い上がる無数のイナゴを右に左に網を振って捕え,それを大きな袋に集め,二〜三日置いて,腹の中を空にさせた後で,大鍋で煎って食べたり,茹であげたものを乾燥し粉末にして食したりして,戦中戦後の食糧難を乗り切る貴重な蛋白源としたことです。(『子どもと雀―とっとりの自然―』清末忠人 富士書店刊)
 
 私自身でいえば,イナゴをとった記憶は確かにある。イネの害虫だということで,見つけ次第とった。しかし,食べたということは覚えていない。私と清末氏とは10歳ばかり離れているのでその違いかもしれない。百科事典で調べる。

いなご(蝗) 直し(翅)目バッタ科に属するこん虫。イネの害虫でふつう見られるものにコバ
ネイナゴとハネナガイナゴがある。…中略…大群をなして移動するヒコウ(飛蝗)は,イナ ゴではなくトノサマバッタである。イナゴ類は食用や飼料にも供せられ,救荒動物とし ては重要視するものの一つである。(『世界大百科事典』平凡社)

 飛蝗についてはパール・バックの『大地』にもあったと思う。その舞台中国だけでなく,日本にもその記録はある。それは,北海道の開拓の記録の中明治13年(1880)から16年(1883)に残っている。

(明治16年)8月4日午前9時,南方から天を真っ黒にしてイナゴの大群が襲来した。移民たちは石油罐をたたき,たいまつを焚いて防いだが,効果はなかった。またたくまに,イナゴは作物を食いつくした。被害は作物ばかりでなく,縄や莚,衣服にまでおよんだ。イナゴの大群が去ったあとは,見わたすかぎり緑色がなくなっていた。(県史シリーズ『北海道の歴史』榎本守恵・君尹彦 山川出版社)

 大砲を撃って追い払おうとしたことも書いてある。こうなると「かわいいイナゴ」などとは言っておられなくなる。
 しかし,このあたりにいるイナゴは飛蝗ではなく食糧難時代の私たちの蛋白源であったとなると,むげに殺していいのかということになる。農薬により激減したイナゴたちは怒りに打ち震え,もう我々の味方にはなってくれないのかもしれない。 (2002.9.8)