そらのやま「通信」     Yukito Shimizu


No.79 多島海 

 
 学生時代,私は文芸部に所属していた。大学といっても昭和35年(1960)入学当時,鳥取大学の学舎は旧鳥取40連隊の兵舎を使っていて,正におんぼろの建物であった。部室は別棟(我々は馬小屋と呼んでいるお粗末なものであった)の長屋の一室が与えられていた。
 ちょっと文学に興味のあった私は,入学して何日かして部室を訪ねた。先輩が一人いた。
「ああ,どうぞ。」それだけで私は部員となった。

 ちょうど60年安保の年だった。多少はそんなことにも興味があった私は,全学連に加入している学生自治会が行う安保反対デモにも参加した。3年生,4年生の執行部のアジ演説はうまかった。それにつられてということでもなかったろうが多くの学生が参加した。しかし,我関せずの学生もまた,多かった。
 岸内閣は退陣したが,あの死者を出すまでの激しい国会デモにもかかわらず,安保改定にはなんの影響もなかった。

 そんな中で文芸部は『多島海』という小さな部員詩集を出した。これは,『砂丘街』という文芸部機関誌発行と並ぶ年間スケジュールの一つであり,新入部員歓迎の事業ともなっているのだった。
 その年新入部員は5名あり,私もその10号記念号に二つの作品を載せてもらった。
 その後私も編集責任者として後記を書いている。
「『多島海』とは,個性をもった多くの島々の存在する海である。きびしい周囲の中に存在する未知の島々。新しい詩の世界がこんなところから展開するであろう,とぼくらは信じている。」『多島海』13号(昭和37年9月15日発行)より

 近頃,古い文集などを整理しながらふと思い出したことがあった。「『多島海』というのは,エーゲ海のことだ」という先輩の言葉を。そうだ,私はすっかり忘れていた。念のために『広辞苑』で調べてみると,「多島海 エーゲ海」とはっきり出ている。 
 ギリシア旅行で過ごしてきた海のこと,島々のことをもう一度思い出してみよう。神話と歴史の海と島々に私の原点の一つを見つけられるかもしれない。それを再び私自身の原動力とすることができるかもしれない。(写真はエーゲ海・ミコノス島)

 さて,その後の文芸部はどうなったのだろうか。『多島海』や『砂丘街』は今も続いているのか。『多島海』50号(昭和52年6月17日発行)には私も作品を寄せたが,その後の消息を知らない。  (2002.9.14)